日本人初、アメリカの「NFL」「NBA」の両方のチアをしたスゴい人!

ディズニーランドで頂いた人生における財産

チアは大っ嫌いだった

突然やってきた絶望で死を考えてしまう

本日登場するスゴい人は、チアリーダーの本場であるアメリカの「NFL」(サンディエゴ・チャージャーズ)と「NBA」(ロサンゼルス・クリッパーズ)の両方でチアリーダーをしたスゴい人だ。
彼女のチアとの出会いは運命的。
チアから離れチアに戻された人生。
チアを通じて多くの宝物を手にした人生。
彼女が決めた3つのルールは、きっとチアに限らず多くの人の学びとなるだろう。
さぁ、どんなチア人生だったのか見てみよう。

さあ…
プロフェッショナル チアダンスチーム
東京ガールズ(CHEERDANCING TEAM) 代表/プロデューサー 柳下 容子様の登場です!

たった3ヶ月のチア

大学の部活を選ぶ際、チアリーディングとダンスで迷っていたのですが校門前で踊っているチアが格好良く、自分も高く宙に舞いたいと思いチアにしました。
初日に体重測定があり、ここで運命の分かれ道。
51kgあった私は支えるベースに振り分けられてしまいました。
初めて太っている事に気づき初めてダイエットを始め、野菜だけの食事に切り替え、毎日ランニングすると1ヶ月で10kg痩せました。
ただ急激に痩せてしまったので精神的にもおかしくなり、拒食症と過食症になってしまいました。
貧血で倒れ、自分さえも支えられない。
人に元気を与えるチアには失格だと思い3ヶ月で退部し、ダンス部に入部しました。

ディズニーランドで頂いた人生における財産

先輩に「柳下はいつも楽しそうだからディズニーで働いてみたら?」と言われて納得し、就職活動ではオリエンタルランドを受け入社しました。
2年経った頃、幸せな環境で働いていることに感謝する一方で、この世界観の中でお客様に夢を伝えているだけで良いのか?と考えていた時期、パーク内で笑顔がない少女を見つけました。
近寄っていくとお母様が「この子は目が見えないの。ごめんね」と言われたのです。
私は(夢の国へようこそ!私達もあなたが来る事を待っていたわ)と心を込め少女の手をゆっくり握りました。すると微笑みかけてくれたのです。
私の気持ちが伝わったことが嬉しくて涙が溢れてきました。
この瞬間に「世界に羽ばたく最高のエンターテイナーになりたい!」と思ったのです。
この気持ちは、私の人生における財産です。

チアは大っ嫌いだった

ディズニーを辞め、ロサンゼルスに3ヶ月間ダンス留学しました。
周りの生徒と比べて見劣りする自分の姿が常に鏡に写り、悔しくて涙が出てきました。
だけど、お金と時間をかけて作った環境なのだから、逃げ出さず3ヶ月間頑張ろう!と覚悟しました。
帰国後は朝から夕方まではダンスを習い、夕方からアルバイトをする生活。
24歳の時、実家から「2001年アルビレックスチアリーダーズ募集要項」というFAXが届いたのです。
ストリートダンスをしていたのでチアには全く興味はありませんでした。
学生時代、過激なダイエットした理由の一つに、上に乗るトップから言われた「私のことを支える立場なんだから痩せないでよ」という一言が悔しくて意地になった事もあり、チア自体が嫌いになっていました。
FAXは捨てました。
祖父の7回忌で地元・新潟に戻ると、たまたまその前後がチアのオーディションだったのです。
オーディションを受けたことも無いし、母への申し訳無さもあったので親孝行と実力だめしで受けてみました。
1次、2次と合格し社長面接で「貴方の元気な踊りと笑顔で新潟を元気にしてください。
貴方が必要です」と言われた瞬間「はい!頑張ります!」と答えていたのです(笑)
今思うとチアをする宿命だったのかと思います。

厳しいチアの世界

アメリカ帰りのチアのボスは厳しかったです。
練習中に「足が短〜い!」「全然かわいくなーい!」と激しい言葉が飛んできます。
その都度ショックを受けている時間は無いので3つのルールを作りました。
・苦しい時こそ笑え
・できないことはない
・何が何でも「はい」と返事をする
チームリーダーでもあったので「足が短い!」と言われても「はい!」と答えると場の雰囲気も良くなり、肯定形で自分が答えているので前向きに受け止めるようになったのです。
休日に百貨店に行き、可愛いメイクの仕方を教えてもらったり、足を長く見せる為にヒップUP体操をしたり、自分で考え色々と試していきました。
当時チアの存在は試合に負けるとファンから罵声を浴びせられ、非常に冷たい扱いをされました。
どうしたらエンターテインメントとしてチアを認めてもらえるか考え、あの手この手で盛り上げて来ました。
この経験を通じ、チアとは何かをすごくロジカルに考えることができました。
チアとは人と人をつなげるコミュニケーションスポーツなのです。

突然やってきた絶望で死を考えてしまう

その後、NFLでの活動を経て2007年。
憧れのNBAでチアを始めて半年経った頃から、怪我が増えていきました。
メンバーのレベルについて行くため、私は目をつぶっても踊れるほど練習しました。
痛みが激しくなり、7時間効く強い麻酔を打って毎日踊っていました。
しかし、首の第7頚椎を圧迫骨折していたのです。
ディレクターに言えば強制送還されるので黙っていました。
ある日、医者から「今日で最後にしないと腕の切断もありえる」と言われ、その日の本番、踊りの中で上半身を反らした瞬間悪夢が来ました。
4秒くらい意識が飛んだのです。
5秒目からは踊り出せたのですが、これではもうプロ失格だと思いました。
その夜、踊れない自分がショックすぎて命を絶とうとマンションの屋上にいくと、走馬灯のように色々な人の顔が出てきました。
最後に「容子!楽しんでる!頑張って!」と母の笑顔が出てきた時に、なんて馬鹿な事をしているんだと我に返ることができ、泣きながら部屋に戻りました。
顔を洗い、自分の顔を見るとお化粧が落ちきらずに残っていて、ブスすぎて吹き出していました。
その時、久しぶりに心から笑ったことがショックで、床に座り込んでしまいました。
これまで1番じゃないといけない!と突き進んできた自分に対して「頑張っているよ」とやっと認めることができて、また別な意味で涙が出てきました。
こんな経験をさせてもらっているだけ感謝!できないことはない!と、その夜できることを100個書き出しました。
その一つに「日本に帰ったらユニフォームを着ないチアをやろう」と書き出していました。

2020年オリンピックに向けて

アメリカの知人から日本のプロバスケットボールチーム「東京アパッチ」がアメリカンスタイルのチアを作りたいので、容子を推薦しておいたとメールが来て、プロチアダンスチーム「東京ガールズ」のマネージャーをさせて頂くことになりました。
しかし2011年、本格的にスタートするタイミングで東日本大震災が発生。
チーム自体の存続が厳しくなったのですが、私は逆に今このチアで日本を元気にする時だと思い、当時のチームの社長に頼んで東京ガールズを譲ってもらいました。
7割アメリカ人のメンバーで形成されていましたが日本人だけのチアに再編成し、2011年6月ワールドグランドチャンピオンズカップを皮切りにFIFAワールドカップなど日本代表の応援させてもらいました。
あれから7年が経ち今も尚、メンバーと走り続けていますが2020年の東京オリンピックではチアリーダーが世界の人をつなぐ立ち位置で活躍するそんな仕掛けをしたいと動いています。
そう、4秒間記憶が飛んだステージですが、後から映像を見てみると意識は飛んでいるのに笑顔で踊っていたのです。
プロとして最後のステージに穴を空けていなかった事は嬉しかったです。
目をつぶっても踊れる程に練習した成果でした。

取材を終えて

柳下さんは小柄ですがパワーがみなぎっている人でした。
今までチアとは可愛らしく踊るものだと思っていたけれど、子どもからご年配の方まで一人ひとりに合わせた笑顔と会場の空気を読み臨機応変に応援の渦を巻き起こすのだと知った。
ディレクターとして関わりだしたある日、応援チームが負けだしファンが諦めて座りだした瞬間、彼女はいてもたってもいられず「今、座ってどうするんですか!ここで背を向けるんですか!?ここまで連れてきてくれたんですよ!」と半泣きで叫んでファンを再度、奮い立たせたと。
試合は負けてしまったが選手から「あんなタイミングで熱い応援を本当にありがとう」と言われたそうです。
きっとここにチアの本質があるのだと知りました。
彼女は2020年に開催される東京オリンピックでも最高の応援を、チアを通じてしてくれるだろう。

プロフィール

柳下 容子(やぎした・ようこ)

東京女子体育短期大学で創作ダンス部に所属。
NHKダンスフェスティバルin神戸で「NHK賞」受賞。
卒業後、株式会社オリエンタルランドに2年間在籍。
その後ロスで3ヶ月間ジャズダンスを学ぶ。
2001年 アルビレックス チアリーダーズオーディションに合格、チームリーダーに就任。
2002年 【NFLサンディエゴチャージャーズ】チャージャーズガールズオーディションに合格。1年間NFLチアリーダーとして活動。
2005年 4月にはサンディエゴのアリーナフットボールチーム「RIP TIDE」のチアリーダーに抜擢され、 サンディエゴに渡米。その年の7月には【NBA CLIPPERS SPIRIT DANCE TEAM】のオーディションに見事合格。7月から1年間ロスに渡米。帰国後、アルビレックスチアリーダーズのディレクターに就任。
2007年 新潟市にダンススタジオCANDLEを開設。
2008年 アルビレックスチアリーダーズ パフォーマンスアドバイザーに就任。
2010年 bjプロバスケットボールチーム東京アパッチの専属チアリーダー「東京ガールズ」の
     マネージャーに就任
2011年 プロチアダンスチーム「東京ガールズ」を再結成
2012年 bjリーグ・東京サンレーヴスのチアチーム、「サンレーヴス・ガールズ」を指揮、プロデュース。
2013年~ プロバスケットチーム 東京エクセレンス(現在Bリーグ所属)
     専属チアリーダー「エレガンス」をプロデュース
2014年~ 「3×3 PREMIER.EXE」EXE GIRLSをプロデュース

現在、東京ガールズをプロデュースする傍ら「笑顔」を届ける為、全国各地で講演活動を行っている。

【東京ガールズ】http://tokyogirls.jp/

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