一般家庭に生まれ、歌舞伎の花形役者になったスゴい人!

歌舞伎とは無縁の家庭に生まれ、子役として舞台出演する中で、歌舞伎に出演するようになり、歌舞伎の世界に入った本日登場するスゴい人。

彼は1981年、9歳の頃に十三代目片岡仁左衛門の部屋子となり、南座『勧進帳』の太刀持で片岡千代丸を名乗り初舞台。
1992年には二代目片岡秀太郎の養子となり、『大阪・中座勧進帳』の駿河次郎ほかで六代目片岡愛之助を襲名。
2008年には上方舞楳茂都流四代目家元を継承し、三代目楳茂都扇性を襲名。
2002年に国立劇場優秀賞、2006年には松尾芸能賞新人賞を受賞した。

近年では大ヒットテレビドラマ『半沢直樹』での活躍が記憶に新しいが、ドラマ、映画、声優としての出演など、活躍の幅を広げている。

彼の活躍の秘訣とは?

さあ…
歌舞伎役者
片岡愛之助様の登場です!

「一人でも多くの人に歌舞伎にふれてほしい」

9歳で片岡一門の部屋子に入り、高校を卒業する頃に将来の道を選択することになりました。
私が役者の道を選ぶと、二代目から「養子にならないか」とお話をいただきました。
私は長男で跡継ぎでしたが、両親はいとも簡単に快諾してくれました。
その時「六代目片岡愛之助」を襲名しました。
名前のある役をいただくようになり、それまでは前に出ている役者さんより目立った演技はだめでしたが、今度は前へ出てお客様に自分をアピールするのです。その役の違いには戸惑いました。

僕らより上の若い方がたくさんいらっしゃいますから、しばらく役らしい役はまわってきませんでした。
転機は、松竹の永山会長(故 永山武臣元会長)が大阪に上方歌舞伎塾をつくって下さったことです。
東京には国立劇場の歌舞伎俳優研修制度がありますが、関西にはありませんでした。
上方の役者を育てなければならないということで一般公募から集まった素人を養成するため、塾ができました。
講師として彼らを教えていたのが父の秀太郎であり、私はそのお手伝いに行っていたので、父たちが塾生に手取り足取り教えることを盗みながら彼らと一緒に学びました。

そんな時、とある新聞記者の方から三期までの卒塾と一緒に私が座頭となってお芝居をしませんかとお話をいただき、二十代半ばに『平成若衆歌舞伎』を旗揚げしました。
当時はがむしゃらでしたから座頭として引っ張る余裕などは全くなく、すべては指導して頂いた父のお蔭ですが、その頃から花形若手の大きな役をいただけるようになって回り始めました。
それから十数年松嶋屋の芸、それ以外の芸も教わりました。
この十年がなければドラマに出演しても何もできなかったと思います。

一番大事にしている事は歌舞伎を務めることですが、歌舞伎にふれるきっかけとなればとドラマや映画にも出演しています。
妖怪ウォッチの声優をしたり、仮面ライダーの映画に出てみたり…すべては子どもたちにも歌舞伎を広めたいという思いがあるからです。

私は十三代目片岡仁左衛門と父 秀太郎の背中を見て育っていますし、楳茂都流四世家元を務めさせて頂いていますから上方へのこだわりを持っています。
ぶれない点は上方役者として一生過ごしたいということです。
東京は歌舞伎座が12か月開いていますよね。
京阪神の上方で12ヶ月開けられたら、そして根付いてほしいと願っています。

◆片岡愛之助オフィシャルブログ「気まぐれ愛之助日記」
http://ameblo.jp/6ainosuke/

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