本日登場するスゴい人は、伝説の格闘技イベント「PRIDE」を舞台に活躍し、最後の日本男児と呼ばれていた人物。
彼は95年のデビューから15年間にわたり活躍を続け、引退後は故郷富山でラーメン店をオープン。
現在は、富山県内に2店舗を持つ実業家である。
彼はなぜ15年もの間現役で活躍を続け、引退後の第二の人生でも成功を掴むことができたのか?
さあ…
株式会社A-STYLE
代表取締役社長
小路晃様の登場です!
「愛が動くとき不可能が可能に」
小学校2年生の時、TVの中で動くタイガーマスクを見て全身に電気が走り、「世界で1番強い男になりたい」という夢を抱きました。
強くなりたい一心で柔道を始め、小学2年から大学4年までの15年間柔道で心身を鍛えました。
最高成績は全日本学生ベスト8。
大学を卒業する頃に警察からスカウトを頂き、両親は大喜びで、私が警察官になるものだと思い込んでいました。
私は幼少の頃からの夢である格闘家になると言ったら、両親、兄弟、全家族から反対され、最後には勘当だ、縁を切るという話をされました。
しかし諦めることはできず、「僕の人生が二度あったら一度はお父さんお母さんの言う事を聞きます。でも人生は一度きりです。だから僕の人生を歩ませて下さい」と置手紙を残し、家を飛び出しました。
東京築地で早朝3時から昼まで仕事をし、昼過ぎから夜まで約10時間、格闘技漬けの生活が始まりました。
そんな中で第一回目のPRIDE開催が発表され、出場のチャンスを掴む事ができました。
5年程経った頃、「PRIDEが最強の男を決める」と題してPRIDE GRANDPRIX 2000が開催。私は人生を賭けて勝負に挑みました。
準々決勝で米国代表のコールマン選手にボコボコにされ、病院送りに。
翌朝、目が覚めると病院のベッドの上。そこには家を飛び出して以来に会う、両親が立っていました。
母は言葉を発さずただ泣いていました。
父には「よく頑張ったな、いつも見ていたぞ」と言われ、涙が止まりませんでした。
親戚からも、「お前の試合の時には父さんが町中の神社仏閣にお参りしていたんだぞ」と言われ、ありがたい気持ちと同時に、試合に負けたことより自分を悔やみました。
いつか引退したら必ず御恩を返すことを決めました。
プロレスも含めて15年活動し、けじめの引退試合は当時、同階級日本人最強の三崎和雄選手と対戦。
最後は強烈なパンチで倒れ、レフリーストップ負け。
スポットライトを浴び10カウントゴングを聞きながら、15年間の思いが走馬灯のように蘇りました。
そこで一筋の光を感じました。それは両親の愛の光だという事がわかりました。
その光は自分勝手に飛び出した僕をも暖かく包んでくれる優しい光でした。
そして、両親の愛のチカラで生かされていたという事がわかったのです。
そのお蔭でこれだけ戦えたんだと深く感謝しました。
涙は出ましたが、悲しみではなく清々しい気持ちでした。
現役中、格闘技を辞めたいと思った事は一度もありません。
世界で一番強い男になるんだと決めていたから、どんなに負けても辛くても、これは全部修行だと思えば頑張れたのです。
1番にはなれませんでしたが、15年間戦った誇りを手に入れました。
そして、全てにおいて感謝を選択すると決め、始めたのがラーメン屋です。
開店日の10月11日はPRIDEの始まった日。
第二の人生のスタートもこの日にしようと決めていました。
おかげさまで順調に続き、3年目で2店舗目を出店することができました。
今後は、更に富山県内で店舗を増やし、いずれは東京にも進出したいと思っています。
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◆つけめん えびすこ
http://toyama.mypl.net/shop/00000340438/
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