単身ドイツに乗り込み、ハンドボールの最高峰として名高いドイツのブンデスリーガというプロリーグで活躍した日本人が、本日登場する。
2000年、ブンデスリーガ2部のConcordial Delitzsch(コンコルディア・デーリッチ)
セカンドチームに入団。努力の末確固たるポジションを獲得し、14年間活躍し続けた。
そして15年目の今年、なんと監督としてドイツリーグのコートに立つことに決まったのだ。
もちろん、日本人として初めてである。
さあ・・・ハンドボールドイツリーグ ZHC Grubenlampe Zwicka 監督 植松伸之介様の登場です!
「迷いを絶つ言葉」
自分の選手としてのプレースタイルが確立されたのは、高校時代かもしれない。
名門横浜商工(現 横浜創学館)で毎日終わりの見えない練習が続いた。
特殊なプレースタイルで有名な学校だった。
社会人になってからは、子どもが好きだったため保育士をしながらリリオ神奈川というクラブチームに所属し、国体にも出場した。
ただ、仕事との両立の大変さにより、徐々に第一線から離れていった。
しかし、離れれば離れるほどハンドボールへの愛は強くなり、最高峰の国でプレーしたいという想いから、ドイツリーグにコネクションがある人にコンタクトをとり所属させてほしいとクラブに掛け合った。
プレーに集中するため、仕事も辞めた。
ドイツに渡ってからは、もちろん2軍からのスタート。
給料などはない。
クラブには、仕事をしている人や学生の人もいた。
しかし、自分はドイツでのプレーに賭けたいという想いもあり、仕事をしながらという選択はしなかった。
生活をきりつめていたが、徐々に貯金も減っていった。
不安になることもあったが、迷いや不安が生じた時にはいつも“誰にでもできることじゃない”と思うようにしている。
本場ドイツでプレーをできること自体が有難い事なのだから、この機会を無駄にせずもっと上を目指さなければと、決して諦めることはなくチャンスを狙っていた。
EU外の外国人枠というのが当時のリーグにあって、同じチームのEU外の外国人選手が怪我で離脱して自分にチャンスが来た。
“今が勝負だ”と思った。
高校時代に培った独特のプレースタイルを活かし、ついに、ブンデスリーガという世界最高峰の舞台で1軍に入ることができた。
その後、こんなに長く続けるとは思ってもいなかったが、気づけば14年もの間プレーを続けていた。
引退をした15年目の今シーズンは、監督としてのオファーをいただきチームを率いることになった。
ドイツという国は、スポーツに対する考え方が日本と全く違う。
ドイツは娯楽がそこまで多くなく、最も人々の心を奮い立たせるのがスポーツである。
週末にリーグ戦があって、国民みんながそれを楽しみに生活する。
サポーターの応援は熱く、厳しくもある。
監督としてもワクワクしている。
将来は日本に戻り、子ども達に対して、自分が経験してきた海外のハンドボールを伝えていきたいと思っています。
◆植松伸之介ブログ
http://blog.livedoor.jp/shin636/
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