江戸千家の流祖である不白が千家の茶道を江戸に広めたのが、寛延3年(1750)今から262年前のことである。
不白は茶の本源のうえに創意、工夫を加え新しい茶法を創成し、上方をその発祥とする茶の湯の考え方に江戸っ子の粋を吹き込み、明快で率直な江戸前の茶の湯を実践してきた。本日は
その11代目を受け継ぐスゴい人!が登場する。日本人が本来持ち、決して絶やしてはならない文化や美徳。
その文化を後世に残すために茶道に精力的に取り組んでいる。
日本人の精神を教えていただきましょう。さあ・・・江戸千家宗家蓮華庵 川上紹雪若宗匠の登場です!
「日本人の美徳」
小さな頃からお茶が普段の生活の中にある環境で育ち、小学校の卒業文集で家元について書いていたので、意識下ではいつか後を継ぐのかなと思っていたのでしょう。
週に1度のお茶の稽古を続け、やがていつしか点前(たてまえ)も出来るようになっていました。
父(当代家元)からは、常々お茶をやってもやらなくてもいいと言われていたのですが、つい悔しくなって続けていました。今考えるとうまく導いてもらっていたのだと思います。中学、高校になるとお茶会の手伝いをするようになり、大学では、茶道やお能、歌舞伎などありとあらゆる家元の研究をされている江戸学・近世文化史の権威である西山松之助先生の下で、1年生からカバン持ちとして指導していただきました。
大学を卒業して、京都・大徳寺の立花大亀老師の許へ参篭することによって「気付き」がありました。
これが自分の生業なのだ、この世に生を受けた意味なのだと。
さらに今は、日本人が本来持っていた精神や文化を途絶えさせてはいけないという思いを強くして精進しています。
茶道は亭主と客が一つの座に寄り合うことによって成り立っています。
亭主が御茶を点てれば、お客様がそれを召し上がる。亭主からばかりでなく、客からの会話や働きかけによってその座は一層の高まりを生じていく。ですから、茶道における客とは受け手としてだけの存在ではなく、茶道を行う上での共演者なのです。それゆえに、孤高の茶道家という人は存在し得ないのです。常に他者と交わりながら、茶道は進行してまいります。 我侭にならず、相手を思いやる気持ちが大切で、自分を前面に出して「立派なお点前だろう」とか「すごい道具を使っているだろう」などとやってしまうと、「なんだよ!」と思われてしまってお茶の世界が成立しません。そもそも特別点前が上手いなどと人の目に留まることは御法度と言われます。奇をてらうことなく、どんなにすごいことも何気なく、常と変わらぬ態度、精神でただ何事も無くとり行われることが最も大切です。
ですから私のようなものが今回このスゴい人!に取り上げていただいたのはまだまだ道半ばであるということの証に他なりません。(笑)
古来、日本人には、親を大切にしたり、困った人がいれば手を差し伸べたり、YesやNoだけでは割り切れない多様な価値観を認め合う優れた文化・美徳がありました。
これは、日本が世界に誇るべき普遍的価値として日本のアイデンティティとなるべきものだったはずです。
時代が下るにしたがって徐々にその優れた美徳は薄れていき、特に第二次大戦以降、その情緒的考え方は劣ったものであると考えられ、日本人に本来備わっていたはずの美徳は省みられなくなっていったように思われます。
お茶には、昔の日本人が共通して持っていた感覚や精神がまだ存在しています。日本人が本来持っている文化精神を大切にして後世に広めていきたいと思います。
そのためにお茶に対して決して手を抜かず本格的なことを続けていきます。