リーゼントの髪形にサングラス、ダブルの革ジャンに真っ白なドカンという独特の服装で日本の音楽シーンに現れたロックンロールバンド“TCR横浜銀蝿RS”。
“ツッパリHigh School Rock’n Roll”“横須賀Baby ”などヒット曲を連発し、日本にツッパリブームを巻き起こした。
横浜銀蝿がデビューした時には、2年後に解散することが決まっていたという。解散が決まっていた理由とは?
さあ・・・横浜銀蝿、嵐様の登場です!
「夢は見るものではなく掴むもの」
“横浜銀蝿”は、もともとは銀蝿という暴走族のチームでした。
昭和53年12月に道路交通法の改正で集団で走れなくなり、チームの中で楽器のできるメンバーを集めて作ったバンドが“横浜銀蝿”です。
暴走族をしていた理由は、目立ちたかったから。
メンバーがみんな若かったし、何しろ勢いがあった。オーディションに何回落ちても全然へっちゃらで、『絶対合格してプロになってやるぞ!』っていう気合いだけはありましたね。
世の中には星の数ほどレコード会社があったので、必ずどっかで拾ってもらえると思っていた。
『自分たちは絶対に売れるんだ』と信じていたし、あきらめませんでした。
ある時、キングレコードの人がライブを見に来てくれてお世話になることになりました。ディレクターからは『どうせ、君たちは人の言うことは聞かないだろうから、好きにやりなさい』と言われました。曲作りや服装も自由にやらせてくれました。ダブルの革ジャンは暴走族の時の制服だったし、ドカンは学生の時から履いていたものを白に変えただけです。
デビューした時には、日本の三大下手バンドとも言われました。
しかし、元々俺たちは音楽家ではなく暴走族だから、ギターの技術なんて無いに等しい。
ほとんどの曲がコードを3つしか使っていません。だけど、練習も死ぬほどしました。
デビュー時の目標は、2年間で完全燃焼して解散すること。そのために、シングル1位、LP1位、武道館満タン、っていう目標を3つ掲げました。
不良はあきっぽいので、長続きしない。しかもメンバーも若いので、いろいろなことに興味が移ってしまいます。2年間という短い期間だったら集中してやることができると思ったのです。
ゴールは決まっていたので、後は突っ走るだけだった。
結局、シングルだけは1位を取れなかったので、1年3ヶ月だけ延長して、3つ全てを達成したんだ。最終的には3年3ヶ月やって1983年12月で一旦解散しました。
仕事は毎日が目新しいことばかりで楽しくてたまらなかった。自分たちが楽しくなければお客さんも楽しめないと思ってた。ほんとに「あっ」という間に過ぎ去った3年間でした。
1998年にメンバーが再度集まって横浜銀蝿を再結成しました。今度は昔と違って、
『のんびりいこうぜ!』という考え方で、活動を続けています。これからも応援ヨロシク!