コメディマジックネタのボケ担当として世界に挑戦するスゴい人

本日登場するのは、子供たちに大人気のキャラメルマシーンおだじさん。

ほっそりした身体を武器に「ようやく生きてるおだじです」などのギャグで観客の大爆笑をかっさらう。

相方が真面目にマジックを披露する横で、ネタをばらしたり、邪魔をしたり。

相方SADAのマジックで驚きながらも、おだじのそのコミカルな動きとセリフで観客はおだじに注目せざるを得なくなるのだ。

彼はどのように今のギャグを編み出し、自分オリジナルのキャラクターと出会い成長してきたのか。

さあ、キャラメルマシーンおだじさんの登場です!

ひょうきん者だった幼少時代

お笑いへの興味の目覚め

「おだじ」を全力で演じ切る

ひょうきん者だった幼少時代

埼玉県で生まれ育ちました。家族は5人家族。4つ上の兄と2つ上の姉がいて3人兄姉の一番下でした。父親は電気メーカーのサラリーマンで母親は保険会社勤め。兄にはよくイジメられましたが、姉は優しかったですね。勉強は苦手でした(笑)

共働きだったので小学校時代は学童クラスに通っていました。そこは楽しくて大好きでした。

面白いことをするのはその頃から好きで、小学校1年生の時、家族旅行で止まった旅館の宴会場で突然カラオケをやっている他のお客さんの後ろをムーンウォークで歩いたんです。200人くらい人がいたその会場でマイケルジャクソンさんのモノマネをやって。「フォー!」と叫んで(笑)
普段から練習していたわけでもないし、本当に突然の行動だったのですがかなり目立って。もちろんウケたんですよ。その体験は今でもよく覚えています。

低学年の頃は目立つことが割と好きでした。大勢の人にウケたりするのが快感でした。今やっていることに非常に近いなと思います。

いじめに耐えた中学時代

中学校に入ってから身長が一気に伸びて、体重は全然増えなかったので今に近い体型になりました。ヒョロヒョロでね、全然体重がついてこなくて。そのことをからかわれたりして、いわゆるいじめですよね。

そのことが原因で学校が嫌いになりました。プロレス技とかを毎日かけられて本当に辛かったし、学校に行きたくなかった。その毎日の辛い瞬間を凌ぐための手段が「笑い」でした。「笑い」が起きた瞬間は自分へのいじめが一瞬止まりますから、その瞬間「生き延びる」わけです。まさに自分自身を守るために、生き延びるために「笑い」を提供していたんです。

うけた時はホッとするような感覚がありました。

お笑いへの興味の目覚め

高校は田舎の僻地にある高校に行きました。ヤンキーも居ない、他からも来ないような田舎で、平和でしたね。中学校時代の辛い学校生活とは一変しました。部活には入りませんでしたが、楽しい学校生活でした。

高校3年くらいからイベントを企画して友達をまとめて連れていくみたいなことが増えました。スノボにみんなで行ったりしてそれがとても楽しくて。その時には僕のお笑いセンスも非常に役立ちました。

高校時代からアルバイトしていた居酒屋「つぼ八」にそのまま就職して社員になりました。店舗ではお店の雰囲気を明るくするために僕自身が盛り上げることもあったのですが、その時に来店されていたお笑い芸人の方に目を止めていただいて「お笑いに興味があるなら早い方が良いよ」とアドバイスされました。
その方はテレビにも出ていたし、有名な事務所の方だったので心に響きました。1年くらい考えてやはりお笑いを目指そうと退職したんです。車を買ったばかりでローンが残ってましたし、家族には「何考えてるの?」と言われましたが。ただやりたいことをやる。という意味では家族は応援してくれていましたね。

まずはお笑い養成所に入らなければと思って色々調べました。比較的安価だった太田プロに申し込みました。3カ月とはいえ、秋元康さんがいらして芸能界の現実を教えてくれたり、即興ネタを作って披露したりする充実した日々でした。
その後にインディーズのお笑い団体「ブロードアロー」に入りました。10人くらいいたのですが、その中で初めてコンビを組みました。今の芸風に近い両方がハイテンションのコンビでした。
名前は「SLランニング」。
一年くらいやってあまり結果が出なくて解散となりました。それを機にブロードアローもやめました。

事務所を転々とした日々

ライブにキャイ〜ンさんがいらして「面白い」と気に入ってくださって、浅井企画に入ってずっと漫才をやっていました。
テレビにも少し出たりしましたね。

ただ思い描いていたほどの結果は出なくて。当時は周りに漫才コンビが多くて、サンドウィッチマンさんとかすごいコンビも生まれていた時期だったので自分が埋もれていくような感覚がありました。そういう思いの中で23歳の時一度解散しました。そこからしばらくはただアルバイトをしながら無為に暮らす日々を送りました。半年くらいたったころにSADAから会いたいと呼び出されて。当時の僕は夢も希望なく暮らしていたのですがそんな僕に相方はものすごい量のネタを書いた紙を束でもってきてくれました。

「もう一度やろう。お前とやりたいんだ」と言ってくれました。その中にマジックネタが入っていたんです。そのマジックネタをもってソニーエンターテイメントに入りました。でもあまり認められなくて。そこからワハハ本舗に移ったんです。ワハハ本舗の社長は僕らのマジックネタを非常に評価してくれました。マジック技術をもっと学ぶために横浜のマジックバーに入って、アルバイトしながらマジックの勉強をする日々。相方がマジックをやって、僕が邪魔するというネタのパターンを少しずつ磨いていきました。もともとのテンション芸にマジックがプラスされた感じです。

お笑いとマジックを融合してから活動のフィールドが広がりました。マジック業界からも声をかけていただけるようになって。お笑いと違ってマジックは世界がフィールドです。語学の壁がありませんので海外でのマジックコンテストにも参加するようになりました。韓国のコンテスト参加をきっかけに世界の方々とのつながりができました。

相方の年齢詐称に気が付かなかった

出会った時から10年以上SADAは同い年だと信じていました。実は5つも年上だったんです!

ある日「結婚披露宴の営業がある」と聞いて控室で待っていたところ、出番10分前になっても相方が来ない。余興担当の他の芸人もいたのですが、「しょうがないからもうお前一人で行け」と背中を押されて会場に出ていったら相方が新郎だったんです。そこで初めて相方が結婚することを知って驚く僕に「おだじ」コールが起きました。おまけにそこで「実は俺お前の5個上なんだよ」というカミングアウトで、更なる衝撃を受けて。このどっきり企画のあまりのショックでそのあと喉に白いカビが生えたんです(笑)

「おだじ」を全力で演じ切る

キャラメルマシーンの「おだじ」は手が抜けない。いつも全力投球です。特に海外では言葉が通じませんからパフォーマンスで伝えることが多い。頑張りすぎて過呼吸になることもあります。

でも今はこの「おだじ」を全力でやり切ることが全てです。細い身体がさらに細くなりそうですが(笑)

ラスベガスでの公演でも毎回声がかかるようになりたいですし、もっと更なる上を目指していきたいと思います。

 
 

◆公式WEBサイト http://www.caramelmachine.jp/

◆受賞歴
『韓国プサン国際マジックコンテストステージ部門』2010年ファイナリスト
「イタリアダンテ審査員特別賞」
『マジックマスターズオープン2010 セントラルオープントーナメント』準優勝。
『IBM世界マジックコンベンション2012』「コメディ特別賞」受賞 など多数。

◆メディア出演歴
「欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞」(日本テレビ)- 第84回(2010年5月4日放送)
「はなまるマーケット」 (2011年8月、TBS)「王様のブランチ」 (2012年2月、TBS)
「もう一度見たいのは誰だ!世界の魔術!幻術!奇術!超マジシャンズリーグ」(2012年3月、テレビ朝日)
「お笑い演芸館 4時間スペシャル」(2016年8月11日、BS朝日)
「じわじわチャップリン」(2016年8月13日、20日、テレビ東京)
「そこそこチャップリン」(2016年8月21日、テレビ東京)など多数。

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