世界中のプロレスラー・コスチューム類を1万点以上手がけるスゴい人!

高校2年!憧れのタイガーマスクの一声が人生を変える

三沢選手引退試合の裏側

20年の遠回り!?で見つけた天職

各業界には表の舞台に出てこない裏方のスゴい人たちがいる。
今日はプロレスラーの間では知らない人はいないコスチューム職人だ!
最初に手掛けた作品は高校生の時、タイガーマスクの覆面だった。
更にジャイアント馬場さんのパンツも作り、アントニオ猪木さんのリングシューズ、三沢光晴選手のガウンも。
型紙は500選手以上を保有し、日本のプロレスラーだけではなく、世界中のプロレスラーが彼にコスチュームを依頼する。
これまでに手掛けた衣装類は優に1万点を超す!
如何にして彼はこの様な偉業を成し遂げられたのだろうか!?

さあ…
コスチューム職人
小栗 修様の登場です!

プロレス好き「おばあちゃん」

おばあちゃん子だった私は、プロレス好きの祖母と一緒に、物心付く前から自然とプロレスを観ていました。
小学生のとき初代タイガーマスクが出てきた時にはその華麗なる技に衝撃を受けました。
おもちゃの覆面でも満足したのですが、3万円もするタイガーマスクの覆面を母が買ってくれたのです。
そんな高価なものは子どもでは何枚も買えないので、自分で作ろうと糸を切って全部バラしたのが小学5年生の時。
今、考えるとそんな高価なモノをよくバラしましたよね(笑)
洋裁ができた母がミシンの使い方を教えてくれ、サポートしてくれました。
生地は身近にある古くなったジャージを切ったり、ボストンバックを切ったり、試行錯誤して覆面づくりをしていました。

高校2年!憧れのタイガーマスクの一声が人生を変える

高校生で15,000円の職業用中古ミシンを買い、革も縫えるようになって自信も付き、それなりに形になってきた感じでした。
既に初代タイガーマスクは引退して、二代目タイガーマスクの試合が後楽園であったので、手作りのタイガーマスクの覆面にサインを貰おうと持っていったら『俺のも作ってくれよ』とタイガーマスク(三沢光晴選手)が言ってくれたのです。
冗談半分かもしれないけれど、こっちは真に受けちゃうじゃないですか(笑)
「やります!」と言って新たに作り、その覆面を実際に三沢選手は被って戦ってくれたのです。
もう、感動ですよね!

サラリーマン生活

大学に入学後もアルバイトを続けましたが、これを生業にしようとは全く思いませんでした。
そのためスポーツメーカーに就職し、会社員として働きながら、選手からの個人的な依頼でコスチュームの製作を続けました。
会社での職種は営業職だったのですが、上司から「営業はモノを売るのではなく自分を売ることだ」と言われたのが印象に残っています。
あとは字の如く「生業(なりわい)を営む」ことの難しさや商売のノウハウなどは現在にも活かされています。

細かなケアと選手同士の心遣い

地方の試合でタイツが破れてしまったと聞けば、すぐに新しい物を作り翌日の試合に向け発送するなど、選手に寄り添ったケアは常に心がけています。
普通「職人」と言うと「モノづくり」オンリーの感じですが僕は「サービス業」だと思っているんです。
選手が何を要求し、困っていることは何か?を瞬時に把握してそれに応えるモノを作ったり、サービスを提供することが本当の「職人」だと。
ある日、チャンピオンの選手が自らのベルトに初めて挑戦することになった後輩レスラーの為に「あいつにガウンを作ってくれないかな。支払いは俺がするから」と言われました。
普通、他のスポーツで相手選手の物を作るなんてあり得ないですよね。
だけど余計な事を聞かずチャンピオンの先輩選手の意図を阿吽の呼吸で瞬時に汲み取るんです。
だからこちらも原価で対応させてもらいました。
当日は後輩レスラーがガウンを纏って登場すると会場は「初めての挑戦だからガウンを新調して気合が入っているな!」と入場時から湧くわけですよ。
先輩レスラーの心遣いに僕が仕事で応え、会場の観客を沸かせた一体感は嬉しかったですね。

三沢選手追悼試合の裏側

三沢さんには数え切れない位色んな事を教えてもらいました。
特にリング上で最期を迎えた事実は「俺はプロレスに命をかけたのだから、お前達も命がけでプロレス業界を守れ!」という強烈なメッセージだったと理解しています。
追悼試合にはゆかりの武藤選手が出場することになり、試合前日に「明日はどうするんですか?」と聞くと「いや何もないけど何かしたいのか?」と言われたので「三沢さんのグリーン生地で2代目タイガーの白いファーをあしらったガウンで登場するのはどうですかね?」と持ちかけると「俺はいいけど、1日で作れるのかよ?」と。
一睡もせず無心でミシンを踏み、翌日の試合開始直前ギリギリに間に合いました。
武藤さんとの話を聞いていたスポーツ新聞の記者もデスクに掛け合い、翌日の一面を確保してくれました。
武藤選手が「三沢仕様」のガウンで登場したときには涙を流していた観客も沢山いました。
選手、業者、そしてメディアが三位一体となって追悼試合を盛り上げたので少しは三沢さんへの供養になったのかなと思っていますね。

40歳を超えてからの決断

数年前までサラリーマンでしたが、気がつけばメジャー団体約7割の選手をサポートし、夜に会社から戻り翌朝まで徹夜で製作をしてまた出勤という毎日で、睡眠は片道3時間の電車の中。
サラリーマン生活も20年で定年までの折り返し。
個人を会社色に染めようとする企業風土や、足の引っ張り合いをする従業員など日本の会社のどこにでもある風景にそろそろ飽きてきました。
そんな時ふと、本当に自分を必要としているのはどこかな?と考え独立しました。
「会社は自分がいなくてもスペアはいくらでもいるけれど、プロレス業界は自分がいなくなったら困るだろうなぁ」という自惚れ半分です(笑)

20年の遠回り!?で見つけた天職

今の日本には「プロレス」の力が必要なんです。
何でも白黒をつけ悪者を見つけては一斉に叩く風潮や、あまりにも効率を重視するあまりにストレスが溜まって挙句の果てには「心が折れた」と。
その点プロレスって反則が5カウントまで許されたり、受けのスポーツゆえに「グレー」なイメージ満載ですよね。(笑)
ただ、それを楽しむ「心の余裕」を持ったり、試合会場で大声を出して応援しながらストレス解消し、打たれても何度も何度も立ち上がる姿を見て自分も頑張ろうと思ってもらえればきっと社会は良くなると思うんです。
戦後の力道山先生がその象徴であったように。
だから僕は選手のコスチュームを通して少しでも多くの人々がプロレスに興味をもち、一度会場に足を運んだお客さんがそれらを見て感動してもらうことを演出できればと思っています。
祖母のプロレス好きがきっかけとなり、母親からもらったミシンで縫製を始め、三沢さんのおかげでプロレス業界に入れていただき、高校の先生から教わった英語で外国人レスラーとのコミュニケーションを深め、サラリーマンではお客様サービスや経営のノウハウを学びました。
小学生の卒業アルバムで書いた将来の夢「プロレスラー」は実現しませんでしたが、現在、自分の人生の「点」が「線」になったことを考えるとプロレス業界を側面から支える仕事は僕にとってまさに「天職」だと言えると思います。

取材を終えて

プロレスファンは腰を抜かす程の商品が所狭しと並んでいる工房での取材。
値段が付けられないほどの商品の数々。
取材した当日、馬場さんの足型を拝見し、その大きさに驚いたのですが、ふと小栗さんが「あれ?今日は馬場さんの命日だ」と思い出されました。
最近、小栗さんの周りでは色々な事が繋がりだしていると言う。
そういう事が連続して起き始めている時は更に大きな事にチャレンするステージの1歩手前である。
小栗さんは団体を横断して仕事をされているから、俯瞰してプロレスを見られている。
そして、長年業界に接してきて良い面も悪い面も見ているはずだが、プロレスに対する愛情と想いは「プロレスの為になら死ねる」と言われた通り突き抜けている。
小栗さんがどんな一石を投じるか楽しみである。
写真説明
●三沢選手が実際に着用されていたガウン
●32と書かれている足型がジャイアント馬場さん。真ん中はアントニオ猪木さん。
 オレンジのリングシューズが西口プロレスの「小橋太っ太」さん。
●手に持っているタイガーマスクは高校生の小栗さんが作成し実際に試合で使われ、
 後に三沢選手からプレゼントされたマスク。

プロフィール

小栗 修(おぐり・おさむ)
KONDOU SHOES 代表

1971年4月29日 神奈川県茅ヶ崎市生まれ。
東海大学 体育学部卒業

これまでジャイアント馬場、アントニオ猪木、天龍源一郎、三沢光晴、小橋建太、長州力、藤波辰爾、武藤敬司、小川直也、オカダカズチカ、棚橋弘至、高山善廣、高田延彦など数々の日本人レスラーのほかスタンハンセン、ミル・マスカラス、世界最大プロレス団体WWEのスーパースターズのコスチュームを製作中。
また、AKB48グループやプロレス系お笑い芸人、ゲームキャラクターなどの衣装なども多岐にわたって製作。

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