フランスで実写邦画史上最多の100館以上で上映された映画をプロデュースしたスゴい人!

本日登場するスゴい人は、小学生時代より子役として数々のCM出演やTVドラマ、ミュージカルの主演等を経験。
高校生時代には、演出、監督した自主映画で、「ぴあフィルムフェスティバル」において2年連続最年少入選。
フランスで実写邦画として過去最多となる100館以上で上映された「下妻物語」や、「姑獲鳥の夏」「魍魎の匣」など数々の映画に企画/プロデュースとして参加している。

早くより活躍しているスゴい人にも、挫折を感じ悩み苦しんだ10年間があった。

さあ…
映画監督/プロデューサー
神田裕司様の登場です!

「挫折があったから今がある」

子供の頃は美術と音楽に関しては成績が良かったので、先生から「君は『表現』をする方面に進むべきだ」と言われていました。
絵画や文学や音楽などの複数の表現の要素をあわせもつ“表現の王様”は何だろうと考えたときに「映画」だと到達し、それ以来この世界に関わりたいと思っていました。

あるとき、新聞に子供劇団の募集広告が載っていたのを見つけました。
家が貧しかったので贅沢は出来ない環境でしたが、とにかく現場に出たかったので、母親に頼み込んで審査代500円を出してもらって応募したところ合格。
その後とんとん拍子でCMデビューが決定して、小学生の後半から中学2年生までにCM数十本、子供番組のゲスト出演や大きなミュージカルの主演などもやりました。
出演するのは苦手でしたが、現場では演出方法やスタッフの動きなどしっかり勉強させて頂き、声変わりしたのをきっかけに劇団を辞めました。

しばらく映画関係から遠ざかっていましたが、高校時代に自主制作映画に出会い、応募した「ぴあフィルムフェスティバル」で2年連続入選。
「このまま最年少で映画監督になるんだろうなぁ」と自分も周りの人たちも思っていましたが、しばらくして実家の借金問題などがあり、「自分の夢を取るのか」それとも「家族を助けるのか」の選択を迫られました。
悩みましたが家族を助けることを選び、それから約10年間は家族を助けるために、映画とはまったく関係のない仕事をしていました。

32歳になって商社に勤めた頃には多少楽になっていたので、自主制作映画づくりを再開。
夕張ファンタスティック映画祭に応募して、それもまた入選しました。
その後、映像制作会社に入社。
約10年のブランクがありましたし、監督で食える状況ではありませんでしたので、映画プロデューサーになることを決意しました。
その頃に関わった作品が、「下妻物語」
当初は40館規模での公開予定でしたが、評判を呼び156館での公開に拡大。
多くの映画祭に招待して頂き、フランスでは実写邦画として過去最多となる100館以上での上映までたどり着くことができました。

別の仕事をしていた10年間は意識的に自分の夢を忘れていましたが、運が良かったのかこの世界に戻ってくることができました。
今は、天職だと思っている映画監督として遅いデビューを果たしました。
20代の頃に映画監督になっていたら、現在は生意気な人間になっていたかもしれません。
挫折があり、悔しい時期があったからこそ、今があるんだと思います。

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