
貧しさ、差別、読み書きができないという現実。
何度も人生を閉ざされそうになりながら、それでも人との出会いと支えに救われてきた一人の男性がいる。
定年後、夜間中学校に通い始め、妻への感謝を込めた一通の手紙が、やがて映画『35年目のラブレター』として世に届けられることになる。
これは、「できなかった」人生ではなく、「あきらめなかった」人生の物語だ。
未来に向けて幸せの花のタネをまいてね。35年目のラブレター
夜間中学校へ――人生の後半で見つけた「学ぶ」という選択
定年を迎える頃、私は偶然、夜間中学校という場所の存在を知りました。
それまでの人生を振り返ると、「学校」という言葉は、私にとって決して明るい響きを持つものではありませんでした。
幼い頃に学校を離れ、読み書きができないまま大人になった私にとって、
教室や黒板、机に向かうという光景は、どこか自分とは無縁の世界の出来事のように感じられていたのです。
もうこの年齢だ。
今さら字を覚えたところで、何が変わるのだろう。
そう思う気持ちがなかったわけではありません。
長い年月をかけて、私は「できない自分」と折り合いをつけながら生きてきました。
読めなくても、書けなくても、仕事はしてきた。家庭も持ち、暮らしも守ってきた。
それで十分ではないか――
心のどこかで、そう自分に言い聞かせていたのです。
それでも、胸の奥に残り続けている想いがありました。それが、「字を覚えて、妻に手紙を書きたい」という気持ちでした。
結婚してからの年月を思い返すと、私は本当に多くの場面で、妻に助けられてきました。
役所から届く書類、町内の回覧板、手紙や通知、細かな書き物。
私が読めない、書けないものは、すべて妻が引き受けてくれていました。
子供の出生届を書けなかったことを経て、自分の子供の名前すら書くことができない自分を許せませんでした。
子供が何気なく「お父さんの字って見たことないよね」と話している声を聞いて悲しい気持ちにもなりました。
このままではいけない。
新しい自分に生まれ変わるためにも、そして何よりも、これまで私のカバーをし続けても尚、
それを特別なこととして口にすることもなく、不満を言うこともなく、まるでそれが当たり前の役割であるかのように、
静かに、自然にやってくれていた妻に、私は、きちんと感謝を伝えられていたでしょうか。
「ありがとう」という言葉を、ちゃんと形にして、伝えられていたでしょうか。
頭の中では何度も思っていました。感謝も、申し訳なさも、確かにありました。
けれど、それを自分の言葉として、文字として残したことは、一度もありませんでした。
せめて一通でいい。
自分の手で、自分の言葉で、妻に手紙を書きたい。その想いが、夜間中学校への入学を、静かに後押ししたのです。
64歳、再び机に向かうということ
64歳での入学でした。
教室の扉を開けた瞬間のことは、今でもはっきりと覚えています。
胸の奥がざわつき、自分が場違いな場所に来てしまったのではないか、そんな不安が頭をよぎりました。
教室には、私と同じように、さまざまな事情を抱えた人たちが集まっていました。
戦争や貧しさのために学校へ行けなかった人。
家庭の事情で学ぶ機会を失った人。
年齢も人生も違いましたが、「今からでも学びたい」という思いだけは、誰の表情からも伝わってきました。
最初の授業で、自分の名前を書くように言われた時、鉛筆を持つ手が、思うように動きませんでした。
力が入りすぎて線は歪み、文字は震え、思っていた以上に時間がかかりました。
「これで本当にやっていけるのだろうか」
そんな不安が、何度も頭をよぎりました。
周りの様子が気になり、自分だけが取り残されているような気持ちになる日もありました。
それでも、先生たちは決して急かしませんでした。
間違えても、うまく書けなくても、「大丈夫ですよ」「ゆっくりでいいですよ」その言葉に、私は何度も救われました。
少しずつ、少しずつ、本当に少しずつですが、字が読めるようになっていきました。
新聞の見出しが目に入った時、短い文章の意味がわかった時、その一つひとつが、私にとっては大きな喜びでした。
字が読める。字が書ける。それだけで、今まで閉ざされていた世界が、少しずつ開いていくように感じられたのです。
35年分の感謝を、文字にする
そんなある日、新聞の広告欄で「夫から妻へのラブレター募集」という文字を見つけました。
その瞬間、胸の奥が強く揺れました。これは、自分のためのものではないか。
そう感じたのです。とはいえ、いざ書こうとすると、手はなかなか進みませんでした。
何から書けばいいのか。どんな言葉を選べばいいのか。頭の中には伝えたい想いがたくさんあるのに、
それを文字にすることが、思っていた以上に難しかったのです。
紙に向かっては、止まり、書いては消し、また最初から書き直す。
一枚では足りず、何枚も何枚も書き直しました。誤字も多く、文章も決して上手ではありません。
それでも、35年分の感謝だけは、どうしても伝えたかった。
一緒に過ごした時間、支えてくれた日々、言葉にできずにきた想いを、一文字一文字、確かめるように書いていきました。
そして、その手紙が入選したと知らされた時、正直、信じられませんでした。
まさか、自分の書いた手紙が選ばれるとは思っていなかったのです。
入選特典として、夫婦で旅行に行くことができました。
特別なことをしたわけではありませんが、その時間は、私にとって、かけがえのない思い出となりました。
クリスマスの日、私は意を決して、そのラブレターを妻に手渡しました。
手が少し震えていたのを、今でも覚えています。
妻は手紙を読み、「間違いがいっぱいあるよ」と言いながら、ぽろぽろと涙を流していました。
その姿を見た時、書いてよかった。学び直してよかった。心から、そう思いました。
妻は最後に「一番間違えているところがあるよ」と言ってきたので、
私は「どこ?」と尋ね、指摘された箇所をもう一度手紙を読み直しました。
私は「幸」を「辛」と書いてしまっていました。
映画化、そして今
しかし、その後、妻は突然この世を去りました。
あまりにも急な別れでした。
妻がお風呂に入ってから10分ほど経つと、いつも必ず「大丈夫か?」と声をかけ「うん」と返事が返ってくるのですが、
その日は返事がなく、扉を開けると、亡くなっている妻の姿がそこにありました。
とにかく、悲しくて悲しくて仕方がありませんでした。
棺桶のなかで化粧をした妻の顔を見て「やっぱり綺麗な女性だな」と想い、ますます悲しくなりました。
夜間中学校を卒業したら、真っ先に卒業証書を見せたかった相手。
それが、妻でした。せめて、妻の表情を見ながら、温度を感じながら、卒業したことを報告したかった。
卒業の日、私は、たこ焼きを五つ供えました。それは、かつて二人で喧嘩した、忘れられない思い出の数でした。
ある日のデートの帰り、たこ焼きを買いました。
私が半分以上食べてしまい、普段はとても優しい妻が、本気で怒ったことがあります。
「ホンマに腹が立つ!!食べ物の恨みやからね!!」
私たちの初めての喧嘩で、妻は2日ほど話もしてくれませんでした。
後にも先にも、妻があんなふうに怒ったのは、その時だけでした。今では、その怒り方さえ、愛おしい思い出です。喧嘩ができることでさえも、幸せなことなのだと痛感したのです。
私のこの人生は、やがて映画『35年目のラブレター』として描かれることになります。
テレビ番組を見た映画監督「塚本連平」さんの妻の一言が、きっかけだったと聞いています。
監督さんから直接電話をいただいた時もとても驚きました。まさか自分の人生が映画になるとは思いもしませんでしたから。
私には最高のキャスティングを手配すると塚本監督にお話いただき、
後日、主演が笑福亭鶴瓶さん、妻役が原田知世さんだと知った時は、現実のこととは思えませんでした。
嬉しい反面、大変恐縮したことを今でも覚えています。
「主演が決定した」と東映から呼んでいただき、私の役を演じていただく鶴瓶さんとお会いした時に、
初めて「映画化は本当のことなんだ」と感動しました。
私の先生や友人たちは、当時、私が「映画詐欺」に遭っているのではないか?とかなり心配されていたようです。
改めて、私の人生を物語として映像化していただいたことに感謝申し上げます。
そして、ご鑑賞いただいた皆様にも、感謝の言葉を届けられたら幸いです。ありがとうございました。
私が最も大切にしているのは、出会いです。
私の家族も、友達も、いじめた人も、助けてくれた人も、すべての出会いが、今の私につながっています。
もし、この話が、誰か一人にでも届くなら。
それだけで、この人生は意味があったと思っています。今、私は辛くはありません。幸せです。
こうして話を聞いてもらえることが、何よりの幸せなのです。
これからも、私の体験談が誰かの心の琴線に響き、お役に立てるようなメッセージを発信していきたいと思っています。
かつて、妻や大切な仲間たちに助けていただいたように、今度は、私が誰かを助けられるような存在になりたいと心から感じております。
絶望ばかりが人生ではないことを、この身を通して伝え続けられるよう努めてまいります。
皆様の人生も、出会いを大切にしながら、言葉でも文字でも、暗闇に希望の火を灯せるような日々になることを願っています。
取材 妃月洋子/ライターまぐま(MAGUMA)
撮影協力
野菜ダイニング
菜宴(奈良)
プロフィール|西畑 保(にしはた・たもつ)
奈良県在住。
幼少期に家庭の事情と貧困により十分な教育を受けられず、読み書きができないまま社会に出る。
パン屋、食堂などで働いた後、30歳頃に奈良市内の寿司店に就職。結婚し、家庭を築く。
定年後、64歳で夜間中学校に入学。
「妻に感謝の手紙を書きたい」という思いから学び直しを始め、読み書きを習得する。
妻への35年分の感謝を綴ったラブレターが話題となり、その人生は映画『35年目のラブレター』のモデルとなった。
映画公式サイト:https://35th-loveletter.com/
現在は、自身の経験を語りながら、学び直しの大切さや、人との出会いの尊さを伝えている。
■取材を終えて
今回、西畑保さんのお話を伺い、私は何度も「言葉とは何だろうか」と考えさせられました。
私たちは日常的に、読み、書き、話すことを当たり前のように行っています。
しかし、その「当たり前」が、誰にとっても当たり前であるとは限らない。
その事実を、これほど静かに、そして深く突きつけられた取材は、そう多くありません。
西畑さんの人生には、劇的な成功談や、派手な逆転劇があるわけではありません。
ただ、読めない、書けないという現実と共に生き、働き、家庭を築き、誰かを想い続けた時間があります。
そしてその時間は、どれも決して省略できない「人生そのもの」でした。
特に印象に残っているのは、どの出来事についても、西畑さんが誰かを恨んだり、責めたりする言葉をほとんど口にされなかったことです。
いじめを受けた話も、苦労話も、淡々と、事実として語られる。そ
の語り口の奥にあるのは、諦めではなく、「そういう時代だった」「そういう環境だった」という、現
実をそのまま受け止めてきた強さのように感じました。
取材を終えた今、私自身、
「伝えたい気持ちを、きちんと伝えているだろうか」
「感謝や想いを、後回しにしていないだろうか」
そんな問いが、心の中に残っています。





