高野山から未来を担う若者に学びを届けるスゴイ人 橋本真人様▶DAY1

本日ご紹介するのは、和歌山県の高野山高校の校長、橋本真人様。

岸和田のだんじり祭りで有名な大阪府岸和田市に生まれ、幼少期から厳格な教育を受けながらも、自分の道を模索し続けた橋本校長。現在は高野山高校の校長として、仏教の精神を軸にした教育を実践しながら、生徒たちの未来を支えるために尽力されています。挑戦し続けることの大切さや、自分自身の可能性を信じることの重要性を教えていただきました。

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◆見どころ◆

▶厳格な幼少期と柔道漬けの日々

▶高野山高校での新たな出会い

▶高野山大学での社会とのかかわり

 

幼少期からの厳格な教育

編集部(以下編:)本日は和歌山県からお越しのところ、お時間を頂戴しましてありがとうございます

橋本先生は和歌山県にある高野山高校の校長先生でいらっしゃいますが、お生まれはだんじり祭りで有名な大阪府の岸和田市と伺いました。

橋本校長(以下:橋本)はい。生まれは大阪府岸和田市です。父と母、2歳下の弟と4人家族です。父は合気道をやっておりまして、創始者の植芝盛平に弟子入りしようと考えたこともあるほどの武道家でした。その影響か躾には大変厳しい人で、弟と共に小さいころから柔道を習わされました。小学校低学年のころから毎日、学校が終わると道場へ、日曜日には父との稽古が日課でした。ですから、当時はそんな厳しい父親のことが苦手でしたね。朝から晩まで柔道漬け。嫌ではありましたが逃れられない毎日でした。父は、技術だけでなく精神力を鍛えることを重要視しており、試合で負けた日は家に帰ると更なる稽古が待っていました。私は幼いながらに「どうすれば父の期待に応えられるのか」と常に考えていましたが、闘争心があまりない自分にとって、柔道は本当に向いているのかと悩むこともありました。父の厳しさは柔道だけではありませんでした。学校の成績にも厳しく、決して手を抜くことを許されませんでした。弟は勉強が得意で柔道も強く、父の期待に応えることができたのですが、私はそのプレッシャーにも悩みながら過ごしていました。

弟と(右が私)

柔道との決別と高野山高校での新たな道

編:中学校でも柔道は続けられたのですか?

橋本;父親が厳しい人ですから、中学校では柔道部に入る以外の選択肢はなく2年生までは続けました。幼いころから柔道に親しんでいたので、入部してすぐの頃は強かったのですが、どんどん同級生に抜かれていきました。そんな私を見て、さすがの父親も私が柔道には不向きであるということにようやく気が付いてくれまして、柔道を辞めることが許されました。中学校3年の時に、進学先を考える中で父の友人から「和歌山に良い学校がある」と聞き、高野山高校への進学を進められました。

編:高野山高校に進学する際に、迷いはなかったのですか?

橋本:ありましたね。特に「進学すれば必ず僧侶にならなければならないのか?」という疑問がありました。父から「必ずしも僧侶にならなくてもいい」と聞いて、それならばと決断しました。その時に僧侶になることが絶対条件であったら進学していなかったかもしれませんね。

編:15歳で親元を離れるのは結構な一大決心とも思えます。

橋本:これまでの人生とは違う新しい何かがある、という漠然とした期待の方が大きかったですね。私はそれまで父親から言われた柔道をやってきたものの、それほど強いわけでもなく、勉強もとりわけ出来る方でもなかったので、「自分には何もない」という気持ちがありました。ある意味で目標がない人生を15年間送ってきていましたから。親元から離れて寮に入る、という全く違う生活にワクワクしていたかもしれません。

編:高野山高校というとやはり仏教に関係したご家庭の生徒さんが多かったのでしょうか。

橋本:と思いがちなのですが、意外にそんなこともないんですよ。仏教とは無関係で高野山高校へ進学してくる生徒は当時で5:5。私も含めて50%の生徒が宗教とは無関係でした。今はね、7:3。70%の生徒が宗教とは関係なく入学します。毎朝の朝礼で読経があるのは、他の高校とは大きく違う点でしょうか。私も普通科に入りましたが、宗教科の生徒もクラスメイトでした。

編:普通科と宗教科の生徒が混合編成のクラスだったのですね。

橋本:そうです。宗教科の生徒は、僧侶になる儀式も済ませていますから僧衣を着ていました。やはり仏教を学んでいるからでしょうか、人間的に成熟している友人が多かったです。次第に私は彼らに憧れや尊敬の念を描くようになりました。そこで、2年生の時に普通科から宗教科へ編入することを決めました。真言宗においては、落語などでよくある徒弟制度というものがありまして、必ず自分の師匠を決めないと仏門には入れません。私は一般家庭の出身ですから、高校2年生の得度((とくど)という仏門に入る儀式)の際に高野山高校の校長先生の弟子になりました。

高校時代 修学旅行にて 前列左から3人目

編:ご両親は驚かれたのではないでしょうか?

橋本:父親は少し驚いていましたが、母は「あなたが選んだ道なら」と共に応援してくれました。宗教科では仏教や密教の教えを学び、精神的に大きく成長することができました。毎日の勤行や宗教の授業を通じて心を落ち着け、自分と向き合う時間が増えました。友達もすでにたくさんおりましたから、宗教科の生活に慣れるのは早く、憧れが形となった生活は喜びに満ちていて、乾いたスポンジが水を吸うように熱心に学びに向き合いました。

高野山大学での学びと布教活動

編:高校卒業後はどのような道を選ばれたのですか?

高校卒業後は高野山大学の密教学科に進学しました。日本で唯一の密教学科です。1学年は40名ほどですが、当時この学科の卒業生は89割が僧侶に、1割くらいが教師になりました。私が特に興味を持ったのは、仏教と現代社会の接点についての研究でした。

私はここで密教の学問を深めつつ、師匠のすすめで「講演伝道部」というクラブに所属して、各地で布教活動を行いました。夏休みなどに林間学校で高野山を訪れる小学生に、紙芝居や劇を通じていのちの大切さを理解してもらったり、少年院へ慰問に行ったりもしました。沖縄では戦争で亡くなった方々の供養を行う活動に携わりました。地元の方々と協力しながら、活動を続けるなかで、その背景にある歴史や苦しみを深く考えさせられました。単なる宗教活動にとどまらず、人々の悲しみを理解し、寄り添うことの大切さを学びました。

編:大学生にとっては一つの修行のような、学びのある活動なのですね。

橋本:机上の学問だけでなく、実践を通じて仏道を学ぶ機会が多くありました。大学生はまだ僧侶の見習いですから、正式な僧侶についてお寺の境内で柴燈護摩(さいとうごま)という護摩供養などを行ったりもします。

大学生は全員が剃髪というわけではなく、普通の髪形でもいいんです。ですが、行事などがある際にはみな一斉に剃髪します。高校時代からバリカンで自分の髪を整えますので、剃髪は自然に自分でできるようになります。

 

編:すごいですね!大学時代の一番の思い出はなんでしたでしょうか。

橋本:大学4回生の時にアメリカ・ロサンゼルスに研修生として留学したことでしょうか。リトル・トーキョーの中に高野山米国別院があるので、そこに寝泊まりをする形でした。ある日、大学に一枚の張り紙がありましてね、高野山米国別院の研修生を募集していました。たまたま、その担当が私の英語の先生で、推薦してくださいました。費用は別院負担で、おまけに私が一期生だったんです。

2日目へ続く

取材:編集部

橋本真人様プロフィール

大阪府岸和田市出身

1985年 高野山大学文学部密教学科卒業

現在 高野山高等学校校長、高野山真言宗醫王寺住職

 高野山高等学校 公式サイト https://www.koyasan-h.ed.jp/

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