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FIELD OF VIEWとして数々のヒット曲を生み出し、「DAN DAN 心魅かれてく」のリリースから今年で30周年を迎える浅岡雄也さん。幼少期から「なぜ?」と何でも疑問を抱き続け、調布の原生林や野原で遊びながら、本に没頭した浅岡少年。逆境を知らず、感じず、曲作りに明け暮れ、歌手としての道を突き進んでいたそうです。自身の歌を変えず、嘘をつかないという信念を貫きながら、常に前向きに挑戦を続ける浅岡さん。その人生の原点と音楽への情熱に迫ります。
死ぬまでイキロ!
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「辛い」と思ったことは一度もない人生

―勘当されてから実家とは連絡は取らなかったのですか?
浅岡雄也氏:全く取りません。家を出てから4年半、一度も帰りませんでした。「出ていけ」と言われた以上、帰れませんし。母には住所は知らせましたが、特に何も言われず、ほぼ音信不通の状態でしたね。とにかくキャバクラ、バーテン、運送屋、道路工事とバイトを4つ掛け持ちし、その稼ぎで音楽機材を購入してました。当時リズムマシンは1台30万近く、MTR(マルチトラックレコーダー)も80万。60回払いのローンでシンセ、MTR、リズムマシンを揃え、毎月12万を支払いながら生活費も稼ぎ、18歳からずっとバイトと曲作りを続けました。ソロバンドも始め、なんとなく動員も増えていきましたねぇ、気のせいかな(笑)。また、ホコ天(歩行者天国の略称)ブームの影響で、原宿ホコ天に行き始めるんです。深夜番組『イカ天』(『三宅裕司のいかすバンド天国』の略称)や、ビートパンク(80年代の頃日本で流行したかもしれない音楽ジャンル)も流行っていた気がする(笑)。
―では、いい思いと辛い思いを同時に抱えていたのですね。
浅岡氏:イイ思い、してたかなあ(笑)。ただ、僕は現在に至るまで「辛い」と思ったことが一度もないんです。基本的に考えすぎない性格なので目茶ポジティブでした。仲間にギャラを使い込まれた時も、もちろんその時頭にはきますが、「人なんてそんなもんだろう」なんて思っていました。僕は自分を俯瞰して客観視する感覚があって、何が起きても「ま、いっか!」と流しちゃうんですよね(笑)。なので人生で谷、底と思ったことは全くないですね。起きることには意味があると思えば、「別にどうってことないや」となり、嫌なことがあれば距離を置けばいい話。自分の選択の結果、として起きたことだと考えます。
例えば。
交差点で「右に行けば大富豪、左に行けば死ぬ」としても、何が起きるかなんぞ予想などできないから、その時の選択は自分が決めているわけですよね?
なので、人が何をしようと、自分が良き!と思えば関わるし、駄目なら近寄らない。そうやってデビューまでの道も流れができたのではないかなあ?と思います。
view~FIELD OF VIEWとして活動して
―デビューのきっかけについてお聞きしたいです。
浅岡氏:18〜20歳頃、バンドのメンバーチェンジで方向性が合わず辞めました。その頃にはもう1人で機材を揃えたので、デモテープを作り始めてましたね。91年〜はビーイング(現・B ZONE)が台頭してきて、その頃からビーイング風の曲を研究し始めました。これが21歳ぐらいの時かな。バイト4つ掛け持ちの中、その頃は極貧でして。22歳の春、栄養失調と肺炎で即入院!となり、保険証を持ってきてもらうために電話したら、親父に「帰ってこい」と言われ、4年半ぶりに帰宅。そこから実家に一旦戻ったのです。その後もバイト掛け持ち生活は続きます。ある日疲れ果て、22時ぐらいに帰った時に「どうしても今からデモテープを持ってきてほしい人がいる」と言われ、わざわざデモテープを持っていったんです。次の日、そのデモテープを聴いた謎の人が「明日すぐに会いたい」と言われましたが「すぐに行けるわけがないだろう」となりますよね(笑)。それが後日お世話になる事務所の社長でした(笑)。また後日、「赤坂のカラオケボックスで歌いに来て!」となり、TUBEやB’z、T-BOLAN、WANDSの曲、要は「Being系ばかり歌え!」とリクエストされまして(笑)。歌い終わった後、すぐに「契約しよう」という話になり、その後1ヶ月でバイトを円満にやめ、正式に事務所に所属することになるんですが、それが、FIELD OF VIEWの前身であるviewとして活動するきっかけになりました。
デビューまでは約2年ひたすら曲作りに集中する環境が出来て、バイトは不要。「金をもらって勉強させてもらっている」と感じてたかな。基本的にネガティブな気持ちはなく、ただただいい曲を作りたいだけでした。22〜23歳の頃、ビーイングのプロデューサーで創業者でもある長戸大幸さんに「君の声は金の匂いしかしない」と言われ(笑)、内心ブチ切れましたが、今思えば最高の褒め言葉だったと思います!〜色々端折りますが〜94年の2月16日に「あの時の中で僕らは」でデビューとなりました。
―デビュー後はいかがでしたか?
浅岡氏:全く売れなかったですねえ(笑)。
最初の2年間はシングル2枚を出しただけで、作って持っていく曲は何度もボツにされましたが、それでも心は折れませんでした。当時ビーイングにはB’z、ZARD、WANDSなど強力なアーティストがいて、その中で戦い、認められることを目標に、年間で約500曲作ったと思います。曲がボツになってもまた次曲を作るだけでした。戦っている相手が皆 チャートに入っているので、そこで「自分も認めさせたいっ!」と、一心不乱で曲を作り続けてましたね。
―viewとして活動され、FIELD OF VIEWになるまでの話をお聞きしたいです。
浅岡氏:その頃はまだ売れていませんでしたが、親父は以前と違って「がんばれよ」と応援してくれていました。
93年12月頃、ドラマ『輝く季節の中で』のタイアップ決まったぞ、で「次は売れるから改名しなさい」と言われ、FIELD OF VIEWと改名しました。その後、デビューシングル「君がいたから」がヒットし、親父の態度もいい意味でさらに豹変しました。
――浅岡さんは、「君がいたから」や「突然」などで織田哲郎さんから作曲の提供をいただきながら一緒に仕事していました。

ライブで歌唱した際の写真
浅岡氏:織田さんの作曲提供もありましたが、会社の方針で直接会うことはなかったです。ZARDの坂井泉水さんにも僕は一回も会ったことがないです。当時ビーイングはプロデューサーの指示が絶対で、アルバム納品した夜中に歌詞の修正指示が来ることもありました。でも音楽以外の仕事は全部断ってくれていたので、音楽に集中するしかなく、最高でしたね。
―代表曲である「DAN DAN 心魅かれてく」は『ドラゴンボールGT』、「渇いた叫び」は『遊☆戯☆王』の主題歌ですが、曲を引け受けるのが決まった時の当時の心境や動機はいかがでしたか?
浅岡氏:当時はアニソンの地位が今ほど高くない感じもあり、最初は主題歌に乗り気ではありませんでしたが、「ならばアニメソングを開拓すればいい!」と考え直しましたね。織田さんのデモテープが来た瞬間に「売れる!」と確信したし、僕も歌詞を書いていたけど、坂井さんの歌詞がFAXで来た瞬間に「これは敵わんな」と思いましたね。坂井さんの歌詞は普遍的な言葉が多いのですけど、符割の癖が強いんです。「渇いた叫び」は決め打ちで曲も決まっていた(らしい)から、すごくポジティブに受け取ってました。が、これも変わった歌でしたね(笑)。あの頃、ビーイングが小松未歩さん押しだったから、「渇いた叫び」の作詞・作曲は彼女が担当したんだと思います。
―『ドラゴンボールGT』の最終回では本編の締めとして『DAN DAN 心魅かれてく』が流れ、とても印象的でした。
浅岡氏:最終回は感動的でしたね。今では要望もないのに、かめはめ波のポーズもやってますけど、基本的に一歌手としてアニメの主題歌でもなんでも歌うスタンスで臨んでいます。結果としてアニソンは世界で生きる歌になりましたし、とても有り難いことですよ!!

スゴい!題字を執筆中
「嘘をつかない信念」とポジティブに生きる
―音楽活動をずっと続けている中で、曲げられない信念やこれからチャレンジしたいことはありますか?
浅岡氏:自分の歌を変えない、嘘をつかないというのが信念です。ライブで何千回歌っていても、初めて生で聴く人もいる。当時と同じように、歌い回しを変えずに歌うのが自分の役目だと思っています。目標は60歳までにFIELD OF VIEWとして武道館に立ち、そしてソロアルバムを15枚出すこと(次作が14枚目)。今13枚目Release済みなので、2026年〜3年内にSoloALBUM2枚出し、還暦までに15枚、達成したいですね!あとは依頼来たものはバラエティーでも何でも挑戦しますが、すべては歌に還元するためだと思ってやってます(笑)。
―もし音楽の道に進んでいなかったら、どんな人生を歩んでいたと思いますか?
浅岡氏:想像できないですね。僕は「これをやる」と決めた瞬間にそれしかない。役者になると言いながら役者にならない動きをする人もいるけど、僕は歌手になる動きしかしてこなかった。使命だと思っていますが、努力という感覚はなく、ただやりたいからやってきただけ。自分より上手い人はいくらでもいるけど、自分の役割はどこかにあると信じています。ここまで突き進めるのは、「音楽ができないなら生きる価値はない」と思っていたからでしょうね。生活できないなら、生活しなければいい。バイトも日常の出来事も全部歌のネタになり、失敗しても「まあいいか」と流します。実はこれまでポジティブ、ポジティブと言っていましたが、それは逆にスーパーネガティブの裏返しなんじゃないかとも思っています。例えば、電車のホームの境目に生と死がありますからね? ちょっとホームを超えたら、死ぬわけじゃないですか。そうしたくなったり、高い所は飛び降りたくなるんです(笑)。だからそれを止めるためにポジティブでいるのだと思うんです。
―ネガティブを理解しているからこそ、ポジティブでいるわけですね。
浅岡氏:そうです。小3の時、飛び降り自殺した人や電車に飛び込んで死んだ人を見ていますし、交通事故でタクシーにぶつかって亡くなった人など、死の瞬間を3回見ているから「人は簡単に死ぬんだ」と気付きました。なので生きているんだったら、ポジティブに生きるしかないと思います。生も歓喜、死も歓喜。隣り合わせだからこそ、いつかくる死の瞬間までポジティブでいたいし、嘘をつかず、自分の声を信じて生きていきます。 <了>
ライター:馬場貴也 取材・撮影:中俣拓哉 ヘアメイク:TAMMY 動画編集:㈱グランツ
■イベント情報
FIELD OF VIEW の23枚目となるニューシングル「ララララ~次のForever~」「DAN DAN心魅かれてく~30th Ver~」のリリース
— 2026年3月11日 配信開始/CD作品は3月25日発売予定 —
https://uyax.jp/?p=2889 配信先 LinkCore:https://linkco.re/XmXS6U0v
アーティストページ:https://www.tunecore.co.jp/artists/FIELD_OF_VIEW
■ LIVE INFORMATION(2026)
【ライブ情報】 一般発売:3月11日(水) 19:00〜 ※オフィシャルサイト/SNSにて告知
FIELD OF VIEW 30th + 1st Anniversary Live
東京公演 日時:2026年5月22日(金) 会場:EX THEATER ROPPONGI
大阪公演 日時:2026年5月31日(日) 会場:なんばHATCH
【プロフィール】
浅岡雄也 歌手、シンガーソングライター
1969年1月25日生まれ、東京都出身。1995年にFIELD OF VIEWのボーカルとしてデビューし、「突然」、「DAN DAN 心魅かれてく」などのヒット曲で知られるようになる。爽やかなハイトーンボイスを特徴とし、2003年からはソロ活動を精力的に展開。2009年には自身の個人事務所である 株式会社U-Factory を設立。2020年からは再結成したFIELD OF VIEWの活動も行っている。
【取材後記】
取材を通して印象的だったのは、浅岡雄也さんの幼少期からの「なぜ?」という探究心とどんな状況でも前向きに生きる姿勢です。家を出てバイトを掛け持ちしながら曲を作り、挫折も受け流す柔軟さ。「嘘をつかず、自分の声に向き合う信念」が、FIELD OF VIEWとしての成功や「DAN DAN 心魅かれてく」のヒットに繋がったのだと実感しました。(馬場貴也)




