病気を克服してオリンピックへ!逆境を乗り越えて金メダルを獲得したスゴい人!▶峰幸代様DAY1

スポーツ選手といえば、才能や身体にも恵まれていると想像する人は多いでしょう。ですが、中には病気や体質を克服して競技に挑み、花開く人もいます。ソフトボールのオリンピック日本代表となった峰幸代選手もそのひとり。幼い頃にぜんそくを患ったものの、スポーツとともに生き、やがてソフトボールに出会い、才能を開花させていきます。北京オリンピック、そして一度引退した後に復帰。東京オリンピック代表となり、見事金メダルを獲得。そんな不屈な精神を持って生きてきた彼女は、引退を迎え、その経験を胸に新しい道へと歩き出しました。

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◆見どころ◆

▶小児ぜんそくを乗り越え、ソフトボールに出会う。

▶強豪・木更津総合高校で全国3冠を達成。

▶日立&ルネサス高崎に入団し、オリンピックを目指す

ぜんそくを発祥した幼少期。生まれて初めてのスポーツは水泳だった

──幼少期の頃を伺えますか。スポーツが好きなお子さんだったんでしょうか。

真逆のタイプですね。小児喘息だったので、お医者様から運動は止められていました。体が弱くて月に2〜3回は病院に通っていました。スポーツどころか走ることさえ止められていたので、スポーツの世界に入ることは自分でも全然想像できないことでした。

そこから徐々に父のスパルタな指導を受けました。愛のある指導ですね。父は水球の選手だったので、私にはスポーツ選手になってオリンピックを目指して欲しいと産まれた瞬間から考えていたみたいです。その父の思いが今の自分を作っていると思います。

 

──お父様は水球選手とのことですが、他のスポーツでもいいということでしょうか。

最初、父は私には水泳の選手になって欲しかったんです。だから初めて5歳で始めたスポーツは水泳でした。ぜんそくの克服ということも考えてくれてのことだったようです。ただ父から見て、私に全く水泳の才能がなかったみたいで…笑。小学生までは水泳を続けて、別のスポーツをやろうということになりました。そこで父が推したのが野球です。私はやりたくなかったんですよ。当時、女の子が野球やるの?という気持ちもあったので…。

 

──数ある中で娘がやるスポーツにお父様もなぜ野球を選んだんでしょう?

父の中では、私をソフトボール選手にするというビジョンができていたようです。そこでオリンピックを目指すならと逆算して、小学3年くらいから始める計画だったんですが、ソフトボールチームがなかったため、野球を始めました。自分としては、思春期に男の子ばかりの野球は嫌だと思っていたけれど「お父さんも一緒に行くぞ!」と言うので、「だったらやる」と。それが始まりでしたね。

 

──お父様と仲がよろしいんですね。思春期の反発とかはなかったのですか?

反発する時間もないほどのスパルタでした。その頃父には好きとか嫌いとかという感情ではなくて、漫画でいう星一徹(巨人の星)みたいな感じです。自分は元々スポーツも好きではなかったし、得意ではなかったんです。でもやっていると少しずつうまくなる。それを父も認めてくれる。その積み重ねがあって、少しずつスポーツが好きになりました。

父の夢から受け身で始めたスポーツが自分の夢になっていく

──強く推されるうちに、そのものを好きになるんですね。ついていけるのが凄いです。

不思議と得意になっていくと好きになれるんですよね。そして小学校6年生のときにシドニーオリンピックがありました。そのとき、ソフトボールで日本が銀メダルを獲った姿を見て、ソフトボールがオリンピック種目で、オリンピックでメダルが狙えると気づきました。目標が具体的に見えたことで、野球も上達していき、中学もソフトボール部が強い中学を選びました。そこからソフトボールの人生が始まりました。学区を越境して通いましたが、父に転勤があり、私も一人っ子だったので、いいタイミングを見計らって近くに引っ越しました。家族も近くで支えてくれていました。

 

──普通の公立の学校で、クラブチームなどではなく部活でオリンピックが目指せるものなんですか?

可能だと思います。今はクラブチームのほうがレベルは高まっているんですが、当時は部活も毎日練習できる環境がありました。県内は高校もレベルが高く、強い先輩たちも大勢いました。常にレベルが高い環境に身を置くことができていました。

 

──高校も部活でソフトボールを続けられたんですね。お父様の計画されたカリキュラムをしっかりクリアされていらっしゃる(笑)。

はい。高校も部活です。高校は千葉の私立高校(木更津総合高等学校)で、全国でもトップレベルの強豪校です。そこから更に上を目指すようになりました。父のプランはうまくはまりましたよね。ただ本当に厳しかったので、私には合ったけれど万人受けはしないのではと思います(笑)。叱られることで折れない強さが必要な面はあると思います。私は父に厳しくされてもそれを超える愛情があることも感じたし、自分の志も高かったので。父が導いてくれたから今、私がトップレベルで戦える選手になれたと感じています。

 

インターハイでの3冠達成。駆け抜けたジュニア時代

──高校ではインターハイで3冠達成されているそうですね。早くにここまで結果を出されてきたのは大変だったと思うのですが…

運が良かったと思っています。ソフトボールはチームスポーツなので私だけの力ではありません。チームメイトにも指導者にも環境にも恵まれました。

同じ目的を共有しているので、いざこざもないんです。本当に周りには感謝しています。全国のレベルの高い選手が集まっていたので、お互いのレベルの高さを認め合っていて、好き嫌いではないんですよね。その子の素晴らしいところだけをフォーカスして信頼していました。やっぱりネガティブな面を言い合うような状態で信頼がないと、チームとして成績がついてこないと思います。

 

──強いチームではレギュラー争いもかなり厳しかったのでしょうか。

30人くらいの中でレギュラーを争いますが、全体のレベルが高いのでかなり厳しいものだったと思います。大事な試合前になってくると練習メニューがそれぞれ変わっていきます。30人が同じメニューをしていてもチームとしては伸びないんです。勝つためにチームの中で役割が出てきて、それぞれ練習メニューが変わることもあります。今までレギュラーとして試合に出ていた選手がほとんどだったので、ここで心が折れてしまう人もいました。でも心が折れてしまったらそこで終わってしまいます。レギュラーになれないならせめてベンチ入りを目指そうとか、勝つためには自分がどうあるべきかと考えるとか、今自分が何をするべきかを考えられる人が選手として残るんです。スポーツは勝ち負けの白黒の世界で、グレーがないんです。それだけに勝ちにどれだけこだわれるかが大切ということと、勝負の世界の厳しさを私もその時期に学びました。

 

──過酷ですね。そういった経験と成長を経て、日立&ルネサス高崎(現:ビックカメラ高崎ビークイーン)に入団されたのですが、入団当初はどうでしたか?

当時、いくつかのチームの方からお声がけいただいました。日立&ルネサス高崎を選んだ理由はオリンピックの為でした。オリンピックに出るための条件として考えたのが「強くて厳しいチーム」そして自分がキャッチャーなので「強いピッチャーがいる」というこのふたつが条件でした。キャッチャーはかなり専門性が高いポジションなので、バッテリーの信頼関係がとても重要です。代表選手というのはバッテリーで起用されることが多いんです。ピッチャーのパフォーマンスを上げるのはキャッチャーの仕事です。ピッチャーのコンディションがチーム全体に影響しますから、キャッチャーの役割は大きいんです。いい環境に恵まれました。

インタビュー・ライター:久世薫

峰幸代(みねゆきよ) プロフィール:

メンタルパフォーマンスコーチ。元ソフトボール日本代表選手キャッチャー。北京オリンピックに20歳で参加し、金メダルを獲得。後に引退するが2020年開催の東京オリンピックにソフトボールが復活したことで、出場を目指して現役復帰。金メダルを獲得する。その後2021年のシーズン終了と同時に2度目に引退。現在は長年の経験を活かし、セカンドキャリアとしてメンタルサポートや指導に取り組む。

Instagram:https://www.instagram.com/mine.yukiyo/

 

 

 

 

 

 

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