「2億の借金を抱えた15歳の少年  が、71事業の経営者に勝ち上がったスゴい人!」DAY1▶古賀正靖様

誰にでも「どん底」を味わった経験があるだろうし、もちろん、筆者の私でもそういった経験は思い当たる節があります。しかし、今回のお話を聞いてしまうと、そのどん底がいかに生温いもであったか思い知りました。今回は、15歳の頃、突如として2億の借金を背負うことになった少年が、いかにして71事業を展開し、1800人にものぼる従業員と巨万の富を築くことができたのかを、プラスワン株式会社 代表取締役社長「古賀正靖」さんに取材させていただきました。

咲いた花見て喜ぶならば咲かせた根元の恩を知れ

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「育まれてきた経営力と幼少期の思い出」

今になって思えば、僕はかなり変わった子だったと思います。小学校6年生までの通信簿には「とにかく落ち着きがない」「まともに授業を聞いていない」と毎回書かれていました。そういう意味で     は、クラスでも浮いた存在だったと思います。幼稚園の頃からとにかく喧嘩っぱやくて、体は小さかったものの乱暴者でした。友達とよく喧嘩をしていたため、母親から「仮面ライダーを見てはいけません」と言われて(笑)番組を観るのを抑制されていた時期もありました。喧嘩でライダーキックを真似してしまうからです。とはいえ、子供の癇癪ですから、それは正義感からではなく、単に「気に入らなかったら喧嘩する」という性格だったのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

小学校5年生の頃、父の仕事を手伝うようになりました。当時、カラオケ機器の販売をしており、僕も営業に同行して新地で機械の売り込みの手伝いをしていました。小学生だった僕が歌うことでウケもよくて、年齢というブランドを駆使して協力していましたね。今から思えば、僕の新地 デビューは小学5年生でした(笑)当時の経済情勢的にも商売は非常に上手くいっていて、裕福な家庭で育っていたと思います。自宅にカラオケ設備があったため、毎日カラオケを歌っていました。8トラックはご存知ですかね?当時はその時期からちょうどレーザーディスクに変わろうとしていた時代だったので、毎回新しいマシンが並んでいて、昭和歌謡を中心に、新曲が入るたびに歌っていました。ただ、ご本人の歌ではなく「カラオケで歌っている人の歌から覚えていた」ので、大人になってから本家を聴くと「全然違うやん!」と恥ずかしくなったりもしました(笑)。僕からしたら、苦い思い出ではあるんですけど、しんどかったり辛かったりした時に、歌って発散できていたという点では、歌というものが自分にとっての「救い」になっていたんだと今では思います。大人になった今でも月に一度は家族でカラオケ大会を開くのが習慣になっています。娘たちに楽しんでもらうためにも、「Mrs. GREEN APPLE」など覚えたりなどの努力はしているんですけど、なかなか声が出ません(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

2億の借金を抱えた15の夜」

その日は突然訪れました。始まりは15歳の頃。僕と6つ下の弟は、父に「話がある」と言われ、正座をして静かに話を聞いていました。「人の借金の連帯保証人になり、2億円の借金を背負うことになった」と聞かされたのはその時です。父は憔悴しきっていて、虚な目つきで寝床で横になりながら話していたことを今でも覚えています。「会社をたたむことになった」「しんどい思いをさせ   る」と言われ、「これからどうなるんやろう」と不安を抱き始めた翌日の晩から、借金とりが家に押し寄せてくるようになりました。当時の借金取りは今のようなルールもなく、夜中でも取り立てに来たり、大声を上げたりしていました。父が見つかれば、引きずられていき、殴られたり蹴られたりすることもありました。

そうした状況の中で、僕は「家族を守らなければ」という思いから空手を習い始めました。父親のボディガードをするためです。幼少期の癇癪が今の正義感に結びついているのかどうかはわかりませんが、今でも家族や仲間を大事にすること。困っていたら 100%の気持ちで手助けをしたいという気持ちは、そういった過去の経験から残っていたものがあったからかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

「生きることに心血を注いだ青春時代」

借金問題については、弁護士を通じて整理を進めましたが、取り立て屋から「破産なんかしたら殺すぞ」と脅されることもありました。中学生だった僕もその声を直接聞いており、不安でいっぱいでした。でも、「止まっている余裕はない」という気持ちの方が強く、引きこもるという選択肢すら考えられませんでした。逆にそれが振り切っていてよかったのかなと思っています。次の日から「明日のご飯」を食べないといけないし、借金も返さないといけないし、生活のために、中学3年生の僕も働かなきゃいけないと思い、ツテを辿って就職活動を始めました。だけど、年齢的にも最低賃金を下回る丁稚奉公のような仕事しかなかった。それでは明日の飯も食べていけない。父は脳梗塞と糖尿病で左半身が麻痺しており、母は働いたことがないお嬢様でしたので「ドカタはできないなぁ」と悩んでいましたが「警備員として旗を振ることくらいならできるんじゃないか」と思い立ちました。それも、アルバイトとして務めるのではなく、「自分で仕事をとってくる」方向に舵を取り始めたんですね。受けの価格で働けば「何年生であろうと関係ない」と考えたからです。家族を支えるために、私は土木業者に直接頼み込み、「今こんなに困っているので、雇ってほしい」とお願いしました。ああいう職業の方々って、温かい人が本当に多くて「大変 やったなぁ」と一緒に涙を流してくれたり、献身的に手を差し伸べてくれたりしたので働くことができました。時給は1000円以上に上がり、ようやくまともな食事ができるようになりました。どうしても人手が必要になった時は、父や母に手伝ってもらいながら、家族一丸となって働きました。父も「いつまでもめげてられない」と奮闘し、営業の経験を生かして仕事をとってくるようになりました。家族3人で協力し合って家計を支えたのが、中学から高校にかけての出来事でしたね。

 

 

 

 

 

 

 

「救われ続けた学生時代から、ご恩返しの人生へ」

中学校を卒業してからは学校に通うつもりはなかったんですけど、当時の担任で進路指導の先生がとてもいい方で、父のボディガードのために本気で空手を習っていたことも知ってくれていましたし、僕も阪神大会で3連覇くらいしていたので、推薦でいけるところや、奨学金で進学できる学校を探してくれました。先方にも家庭の事情を説明して、空手と最低限の単位を取得するだけで卒業を認めてもらえるようかけあってくれて、あとは警備のバイトをしながら学べる環

 

境を整えてくれたのです。それなら僕も高校に行こうと思い、進学することにしました。学業と自営業の掛け持ちが始まり、僕は夜勤の警備で働くことになりました。夜勤の方が儲かるんで。父と母はお昼間を担当し、お互いに増員が必要になったら、僕も学校と相談して出勤して、昼夜 と警備の仕事をやって…24時間に近いくらい働いていましたね。多分、その頃から3時間睡眠だけでも活動できるショートスリーパーになったんじゃないかな。高校3年間くらいはそんな事業形態が続いて、その頃から人も雇えるようになってきて、お客様も喜んで僕らに仕事を渡してくれるようになりました。仲良しのおじいちゃんとかに(笑)声をかけ、それが1…2…3人と次第に増えてきて、働く人員が整って自分が営業をメインに回れるようになってきたのが20代前半です。20歳かそのくらいにはもうスーツを着ていました。成人式の時に、僕だけ「やけにスーツが馴染んでる」って言われましたしね(笑)その頃はバリバリ営業していて、仕事も建築関係の警備業務を手掛けるようになり、仕事も次第に増えていきました。しんどかった時に一緒に涙を流してくれて、お仕事を出してくれた。そのお客様である土木の社長さんを思い浮かべると「その人の役に立ちたい」「ご恩とご縁をくれた人たちに恩返しがしたい」「この人たちが困らないように仕事をしなければ」という気持ちが沸々と湧いてくるんです。そんな想いが、現在まで続いている商売の原点として、ずっと胸の奥で残り続けている大切な信条となっています。

DAY2へ続く

古賀正靖様 プロフィール

1972年92       川西生まれプラスワングループ代表

プラスワングループ公式サイト https://plusone-group.co.jp/plusone-group/

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