読み書きができなかった過酷な人生が映画になったスゴい人!▶西畑保様 DAY1

貧しさ、差別、読み書きができないという現実。
何度も人生を閉ざされそうになりながら、それでも人との出会いと支えに救われてきた一人の男性がいる。
定年後、夜間中学校に通い始め、妻への感謝を込めた一通の手紙が、やがて映画『35年目のラブレター』として世に届けられることになる。
これは、「できなかった」人生ではなく、「あきらめなかった」人生の物語だ。

未来に向けて幸せの花のタネをまいてね。35年目のラブレター

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山奥で育った少年時代――貧しさと孤独の始まり

私は五人兄弟の長男として、山奥の貧しい家に生まれました。落ちているものを拾って食べながら凌いでいたことは今でも鮮明に覚えています。家の周りには山しかなく、人の気配よりも自然の音の方が身近な環境でした。

家から学校までは、片道およそ10キロ。山道、獣道でしたので、3時間くらいかかっていたと思います。夏は朝5時に家を出ても間に合わず、冬や雨の日は、そもそも通うこと自体が難しい距離でした。それでも「学校には行かなければならない」と思い、文句も言わず、ただ黙って歩き続けていました。

小学校2年生になって近くの村へ引っ越して、「たもっちゃん」と呼んでくれる友達も出来始めたきた時の頃のことです。私は、学校で100円を落としました。友達と必死で貯めたお金です。

当時の100円は、今で言えば数万円ほどの価値があります。山で採った木の皮を売り、友だちと一緒に必死で稼いだ、大切なお金でした。

誰かがそのお金を拾い、先生に届けてくれました。私は、「それは自分のお金です」と伝えました。しかし、先生は私の話を信じてくれませんでした。

「貧乏な家に、そんな金があるわけがない」

そう決めつけられ、私は嘘つき呼ばわりされました。生徒の前に立たされ、何度も問い詰められました。明くる朝は廊下にも立たされました。説明しても、言葉を尽くしても、聞いてもらえることはありませんでした。

一緒にお金を貯めていた友達も、当時、学校にも行かず、「あいつと一緒に遊ぶな」と言われるくらい評判が良くない子だったので、その事も相まって間に受けてもらえず、結局、その100円が私の手元に戻ってくることはありませんでした。

やがて、私の机は教室から撤去されました。周囲の視線も変わり、私は「泥棒」として扱われるようになりました。その空気に耐えられなくなり、私は学校へ行けなくなりました。

その後、先生が家を訪ねてくることもありませんでした。理由を聞かれることも、声をかけられることもなく、私は学校から切り離されていったのです。

普通に過ごしていると思い出すことはありませんが、やはり今でも学校の前へ行くと、あの時の痛みは鮮明に甦ります。

学校を離れ、働くしかなかった少年期

学校をやめた私は、父の炭焼きを手伝いながら生活していました。山で木を切り、炭を焼き、毎日体を動かして働く。それが、学校へ行かなくなった私の日常でした。

12歳のとき、家を出て、パン屋に住み込みで働くことになります。親元を離れる不安がなかったわけではありません。それでも、「働かなければ生きていけない」という思いの方が、ずっと強かったのだと思います。

そのパン屋で、人生で初めて、白いご飯をお腹いっぱい食べました。貧しかったので、家でお米を炊くことはありませんでした。おかわりをしても怒られない。満足するまで食べていい。そのことが、ただただ嬉しかった。2年間、天国にいるような素晴らしい環境で過ごさせていただきました。読み書きができなくても、手を動かして働けば、ここには居場所がありました。

14歳になると、さらに大きな食堂へ移ります。仕事の量も増え、責任も重くなりました。そして、この場所で初めて、「読み書きができないこと」が、はっきりとした壁として立ちはだかります。

電話で受けた注文を、紙に書き留めることができない。注文内容を正確に伝えることができない。先輩からは、いじめのように、わざと難しい漢字を書かれて買い物を頼まれることもありました。

わからないとは言えませんでした。聞き返すこともできませんでした。ただ黙って、その場をやり過ごすしかなかったのです。

場所が変わっても、仕事が変わっても、
読み書きができないという現実は、いつも私のそばを離れませんでした。
どこへ行っても、それは影のようについて回りました。

寿司屋の親方との出会い、人生が動き出す

30歳頃、奈良市の寿司屋で働くことになりました。隣町の映画館へ行った時に、そのお寿司さんの貼り紙に「店員募集」と書いてあるのを目にしたからです。店員募集の文字はよく読めなかったのですが、いつも貼ってありましたので、私は勇気を出して「ここで働かせてください」とお願いをしたのです。

親方は開口一番、「よっしゃ、働き」と迎え入れてくれました。もちろん、読み書きができないことは、ずっと自分の中で隠し続けてきました。

知られれば、また仕事を失うかもしれない。そう思うと、正直に話すことが怖かったのです。

それでも、この店では、最初から隠したまま働くことができませんでした。私は意を決して、親方に向き合い、正直に伝えました。

「読み書きができません」

一瞬、間がありました。怒られるのではないか。断られるのではないか。そう覚悟しました。しかし親方は、あっさりとこう言ってくれました。

「構わん。俺が責任持つ」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、すっとほどけていくのを感じました。
初めて、「このままでいい」と認めてもらえた気がしたのです。親方だけではなく、そのお店の先輩や後輩も、私のことを理解してくれました。

この一言が、私の人生を大きく変えることになりました。一つひとつの出会いを大切にしよう。友達を大切にしようと、私の中の価値観を形作る体験となりました。大将も含め、私の周りには大切したいと思える存在がたくさん増えていきました。

もちろん、1番は妻ですけどね。

結婚、そして秘密

親方の勧めでお見合いをし、そこで妻と出会いました。初めて顔を合わせた瞬間、思わず目を奪われるほど、綺麗な人でした。緊張して、何を話したのかは、正直よく覚えていません。
ただ、「この人と一緒に生きていきたい」そう強く思ったことだけは、今でもはっきりと覚えています。1週間くらい経っても返事がなかったので、「無理かな」と意気消沈していましたが、しばらくして「お願いします」と返答をもらった時は天にも昇る喜びを感じました。

その時、脳に浮かんだのは読み書きのことでした。

結婚式が決まった時の式場の予約や、新婚旅行の宿帳の記入などです。式の時は仲人さんに代筆いただくことはできましたが、それ以外の場面では何とか誤魔化しながら「文字を書く」ことから逃れ続けていました。

結婚してからも、読み書きができないことだけは、どうしても打ち明けられませんでした。何せ、自分の名前すら文字にして残すことができないわけですから、知られたら、幻滅されるのではないか。見下されるのではないか。そんな不安が、頭から離れなかったのです。

それでも、日常の中では避けられない場面が訪れます。
ある日、回覧板が回ってきました。その時、隠し続けてきた事実が、ついに妻に知られることになります。怒られる覚悟をしていました。責められても仕方がない。そう思いながら、妻の言葉を待ちました。

しかし、返ってきたのは、思ってもみなかった一言でした。

「何でもっと早く言ってくれなかったの」

妻は怒りを含ませていましたが、決して、私たちの関係が断ち切れるような言葉ではなかったからです。その言葉を聞いた瞬間、胸に張りついていた重たいものが、音を立てて崩れていきました。妻は「一緒にがんばろう」とまで言ってくれました。妻のかけてくれた優しい言葉は今でも忘れません。

妻とデートをする時、字を書けないことを悟られまいと、私はいつも週刊誌や新聞紙を持ち歩くようにしていたのですが、妻は「よく新聞を読む人なんだな」と内心考え続けていたそうです。私が文字が書けないことを告白して、ようやく持ち歩いていた理由に合点がいったと話してくれました。

その頃から、妻は銀行に行く時も役所に行く時も、いつもそばについてきてくれました。妻からは「せめて、私の名前とあなたの名前は書いてね」と言われ、一緒に字を書く勉強に付き合ってくれました。

責められるのではなく、受け止めてもらえた。この人となら、何があっても生きていける。そう、初めて思えたのです。この一言が、私の人生を、静かに、しかし確かに変えていきました。

取材 妃月洋子/ライターまぐま(MAGUMA)

撮影協力
野菜ダイニング
菜宴(奈良)

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プロフィール|西畑 保(にしはた・たもつ)

奈良県在住。

幼少期に家庭の事情と貧困により十分な教育を受けられず、読み書きができないまま社会に出る。

パン屋、食堂などで働いた後、30歳頃に奈良市内の寿司店に就職。結婚し、家庭を築く。

定年後、64歳で夜間中学校に入学。

「妻に感謝の手紙を書きたい」という思いから学び直しを始め、読み書きを習得する。

妻への35年分の感謝を綴ったラブレターが話題となり、その人生は映画『35年目のラブレター』のモデルとなった。

映画公式サイト:https://35th-loveletter.com/

現在は、自身の経験を語りながら、学び直しの大切さや、人との出会いの尊さを伝えている。

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