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FIELD OF VIEWとして数々のヒット曲を生み出し、「DAN DAN 心魅かれてく」のリリースから今年で30周年を迎える浅岡雄也さん。幼少期から「なぜ?」と何でも疑問を抱き続け、調布の原生林や野原で遊びながら、本に没頭した浅岡少年。逆境を知らず、感じず、曲作りに明け暮れ、歌手としての道を突き進んでいたそうです。自身の歌を変えず、嘘をつかないという信念を貫きながら、常に前向きに挑戦を続ける浅岡さん。その人生の原点と音楽への情熱に迫ります。
死ぬまでイキロ!
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常に「なぜ?」と疑問を抱いていた幼少期
―まず、浅岡さんは子どもの頃、どういう風に過ごしていたかお聞きしたいです。
浅岡雄也氏(以下、浅岡氏):一言で言えば、落ち着きのない子どもで物心ついた頃からずっと「なぜ雨が降るの?」「なぜ風が吹くの?」「なぜ人間は生きているんだろう?」と、何でも疑問に思っていました。それからね、パラパラ雨が降る音を「雨の足音だね」って表現して詩人の血が流れてるなんて言われたり、雲を見て「食べられるかな」なんて空想してみたり。生まれて物心ついた頃から、そんな空想癖を持って、なぜなぜと疑問ばかりを抱えた子どもでした。
実家は浜田山でのちに調布移転し、とんかつ屋をやっていて、両親は朝から晩まで働いていました。だからあまり構ってもらった記憶はありません。下に双子の弟がいて、「お兄ちゃんは我慢しなさい」と親に言われ続け、僕は寂しさのような感情を粘土にぶつけてひたすら作っていました(笑)。
―そういった疑問は親や周りの大人にぶつけてみたりしましたか?
浅岡氏:いや、していません。疑問は自分の中だけで完結していて本もかなり読んでいました。本を読んでいると褒められたので、自然と没頭していました。特に百科事典は30巻くらいあったのを全部読みましたね。内容は難しくてよく分からなかったけれど、知識を詰め込むこと自体が楽しかったんです。
そのおかげで、漢字は書けなくても読む力は自然に身につき、「本を読めば褒められる、楽勝だな」と思い、大人に対してどこかひねくれていた部分もありました(笑)。
―外で遊ぶこともありましたか?
浅岡氏:もちろんです。あの頃の調布は田んぼと原生林ばかりで、野原を駆け回るのが楽しかったです。原生林がある所に基地を作ってお菓子を食べたり、泥遊びをしたり。小学校高学年くらいかな、森に落ちているエロ本を見つけてみたり。その辺から人生が変わってくるんですよね。我々の世代はみんな通る道(笑)。
YMOの衝撃とバンド活動のはじまり
―音楽はいつ頃意識し始めましたか?
浅岡氏:最初は全く意識していません。お笑いバラエティー番組の『8時だョ!全員集合』でピンク・レディーやキャンディーズ、沢田研二を見るくらいと小学校の音楽の授業でなんとなく歌える程度でした。でもある日、親父が急にステレオセットを買ってきて、オリビア・ニュートン=ジョンやニニ・ロッソ、宗次郎をかけました。その時に「ああ、いい音ってこういうものなんだ」というのを知ったんです。またその頃、ラジカセを買ってもらって、FMのステレオ感に感動してた。「これまで聴いていたAMと違うぞ」って。
当時は、他に電車、スーパーカー、野球に明け暮れていた感じでした。野球では、ポジションはライトの8番。下手な人はライトの8番って大体決まっています(笑)。
でも小学5年の時、友達の家でYMOの「ライディーン」を聴いて衝撃を受けたんです。「音楽の未来がここにある」と思いました。親父は「こんなの音楽じゃねえ」と否定しましたが、僕は当時初めて聴いたシンセサイザー(以下、シンセ)に惹かれました。吉祥寺の楽器屋に毎日通い、プリセットを1個作って帰る生活を始めましたね。シンセは高価で買えませんでしたが、触るだけで十分楽しかった。
―では、その頃は「ライディーン」を聴いて興味を惹かれ、楽器屋に通ってシンセに触れていたのですね。
浅岡氏:そうです。音に興味がありました。これまで聴いたことのない音が出る。空飛ぶ車やリニアモーターカーなどが当時構想されていたけど、シンセの音は未来そのものだと思いました。冨田勲の「月の光」やウェンディ・カルロスの「スイッチド・オン・バッハ」を聴き、さらに衝撃を受け、「シンセしかない」と確信しました。でも買えるわけないから、まだ仕事にしようなんて夢にも思わず、「電車の運転士になるんだ!」と考えたりもしていました。鉄道や路線図に夢中になるオタク気質はその頃からあったと思います。

シンセサイザーを弾いていた中学3年の頃
―中学ではどんな経験をしましたか?
浅岡氏:中学では、不良たちがバンドを始めて、僕は誘われずスタジオで見ていました。何もできなかったけど、シンセは触れたのでコードをなんとなく弾くことはできましたね。お金持ちの友達の家でシンセを触り、カセットで多重録音を始めました。また別の友達にボンボンがいたんだけど、彼がミニFMを立ち上げてパーソナリティやってくれないかって声を掛けられたんです。「ああ、いいよ」って、でもYMOしかかけないっていう(笑)。あの頃の経験が、今の自分の基礎になってる気がします(笑)。
さらに中3の卒業生を送る会で、サザンオールスターズやRCサクセション、THE ALFEEのコピーバンドをやりました。その時、THE ALFEEの曲が誰も歌えないから僕が「星空のディスタンス」を歌うことになったのですが、全校生徒1000人ぐらいの前で大歓声が起こり、「あれ? イケルんじゃね?」と勘違いが始まりました(笑)。
その後、デュラン・デュランのジョン・テイラーに憧れてベースを始め、新宿ロフトでBOØWYのライブを観て氷室京介(当時は氷室狂介名義)を意識しました。「俺も氷室京介になりたい」と思ったけど、自分ではなれないとわかり、オリジナル曲を作り始めましたね。
中3の冬、素行が悪く、捕まりまして^_^; 親父にこっぴどく叱られて大事にしていたカセットテープ500本とベースを壊され、禊ぎで丸坊主にさせられました(笑)。それでも音楽への情熱は消えませんでした。
―高校はいかがでしたか?
浅岡氏:高校に入学してから自己紹介で「歌いたい、ベースやっています」と言ったら、クラスメイトにドラム、ギター、ベースの経験者がいて、そこからすぐLOUDNESS、EARTHSHAKERのコピーバンドを組みました。高校の文化祭というのはオーディションに勝ち抜かないと体育館のステージに上がれなかったけど、僕らはなぜかオーディションを勝ち抜いて上がれましたね。その後も、学園祭で爆風スランプとチェッカーズのコピーバンドをやり、「浅岡というかっこいい人がいる」と噂になって女子高から見に来る人もいました(笑)。それでまた勘違いパート2が始まるんです(笑)。
当時はバスケットボールもやっていましたが、高2の時顧問の先生に「バンドかバスケか選べ」と言われ、バンドを選びました。その頃、またBOØWYがブームになり始めていたから「JUST A HERO」のツアー後ぐらいにBOØWYをやりたいと思って、僕がボーカルになるんです。高3の文化祭の時にBOØWYのコピーバンドをやって、そこで「もう俺は歌っていこう。やっぱり俺は氷室京介になるんだ」とまた勘違いしました(笑)。勘違いパート3(笑)。その時のバンド名は実家の店の名前を借りて「とんかつ ひで / Ton-Hide」と付けました(笑)。
その頃は、高校生だから、妙に動員力があったんです。「ライブやる!」ってなったら60人とか80人とか無理矢理集めてたけど。それがあって、新宿ルイードのBookingに呼ばれたんです。「PROの前座やらないか?」って。それでまた、調子に乗ったんですよね(笑)。バンド名もさすがに「とんかつ ひで」はまずいだろうと、ローマ字にして「TON-HIDE(とんはいど)」にしました。安易過ぎるだろ(笑)。
メンバーとの決裂や親からの勘当で新たな生活へ

インタビュー時の様子
―高校で進路を決める時は、どう考えていましたか?
浅岡雄也氏:高3の冬、大学や専門学校に行くか就職か迷いましたが、当時やっていたバンドで「この音楽で生きていこう」と決意しました。メンバー2人は賛成しましたが1人は大学受験があるから「遊びならいいよ」と。それで活動を続けて、ライブハウスにも出演するようになりました。
そんな1年くらい経ったある時、バンドメンバー全員で『TOKYO-POP』という映画にエキストラとして参加する機会がありました。ところが、他の3人のメンバーがそのギャラを内緒で使い込んでいたんです。さすがに僕はブチ切れてそのバンドを脱退しました(笑)。
その頃、別のところで布袋さんとそっくりなギタリストと出会ったんです。これでBOØWYになれると思ってバンドを組みました(笑)。それが18の春です。
―親御さんの反応はいかがでしたか?
浅岡氏:親父は当初何も言わず、僕も最初は中学教師か高校教師になろうと思っていました。でも大学受験ももう間に合わない、受からないな、ならば、音楽でやっていこう!と。親父に勉強のために高い金出して買ってもらった教材のカセットテープに全部バンドの曲を録音してしまっていたり(笑)。
高3卒業前、ガチ話合いをし「音楽で飯を食っていきたいんだ」と伝えたんですが。
親父は「音楽で食える人間は氷山の一角の中の一角だ。悪いこと言わないから公務員になれ」と説得してきました。
僕は「じゃあその一角になればいい」と返し、「ならば出ていけ!」となり、そこから3週間後の春、家を出ました(半分勘当w)
布団1枚とラジカセだけ持ち、家賃2万3000円の風呂なしトイレ台所共同のアパートにですね。もちろん家族からの支援は一切ないので、そこからはバイトで生活するしかありませんでした(当たり前(笑))が、僕はワクワクしかなかったです(笑)。
ライター:馬場貴也 取材・撮影:中俣拓哉 ヘアメイク:TAMMY 動画編集:㈱グランツ
■イベント情報
FIELD OF VIEW の23枚目となるニューシングル「ララララ~次のForever~」「DAN DAN心魅かれてく~30th Ver~」のリリース
— 2026年3月11日 配信開始/CD作品は3月25日発売予定 —
https://uyax.jp/?p=2889 配信先 LinkCore:https://linkco.re/XmXS6U0v
アーティストページ:https://www.tunecore.co.jp/artists/FIELD_OF_VIEW
■ LIVE INFORMATION(2026)
【ライブ情報】 一般発売:3月11日(水) 19:00〜 ※オフィシャルサイト/SNSにて告知
FIELD OF VIEW 30th + 1st Anniversary Live
東京公演 日時:2026年5月22日(金) 会場:EX THEATER ROPPONGI
大阪公演 日時:2026年5月31日(日) 会場:なんばHATCH
【プロフィール】
浅岡雄也 歌手、シンガーソングライター
1969年1月25日生まれ、東京都出身。1995年にFIELD OF VIEWのボーカルとしてデビューし、「突然」、「DAN DAN 心魅かれてく」などのヒット曲で知られるようになる。爽やかなハイトーンボイスを特徴とし、2003年からはソロ活動を精力的に展開。2009年には自身の個人事務所である 株式会社U-Factory を設立。2020年からは再結成したFIELD OF VIEWの活動も行っている。
2日目へ続く




