人気漫画家として活躍の一方、メディアやSNSで覚悟を持って発信し続けるスゴい人!▶倉田真由美様 DAY2

だめ男ばかりを好きになり、そうした男性たちとの関係を渡り歩いてしまう女性たちの実情を描いた大ヒット漫画『だめんず・うぉ~か~』。その作者として知られる人気漫画家・倉田真由美氏は、“だめんず”という言葉を社会に定着させた立役者でもある。今やこの言葉は作品の枠を超え、一般名詞として広く使われるようになっている。漫画家として活躍する一方で、コメンテーターとしてさまざまなメディアで、またSNSを通じて自身の考えを積極的に発信し続けている倉田氏。たびたび炎上に見舞われながらも発信を続ける背景には、同氏なりの深い覚悟と信念があった。

いつ死んでもいいように生きる。

 

本日の見どころ

▶発信が炎上しても語り続ける理由
▶「だめんず」という言葉が社会に与えた影響
▶年齢・立場が変わっても失われない視点

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「週刊SPA!」での連載開始が大きな転機に

『だめんず』連載開始前。「カツカツの生活をしていた頃」(本人談)

デビュー後、しばらくは不安定な日々が続きました。初めて漫画で食べられるようになったのは「BUBKA(ブブカ)」(コアマガジン・当時)という月刊誌の連載が始まってから。この連載のおかげで、それに付随して他のところでも連載が始まりました。それでも月の収入は15万~16万円ほど。漫画家って、売れる人はあっという間に億万長者になる人も珍しくない世界。私は23歳でデビューして、漫画で食べられるようになったのが20代後半で、45年かかっているんです。5年やって芽が出なければもう他の道に、みたいな。デビューしたところで、食べられないまま消えていく人が大半です。だから、諦めずにやっていてよかったのは、2000年に「週刊SPA!」(扶桑社)で『だめんず・うぉ〜か〜』の連載を持てたことですね。だめな男に惹かれてしまう女性のエピソードを描いた作品ですが、そのおかげで、ようやくカツカツの生活から抜け出せて、十分なお金が入ってくるようになりました。「週刊SPA!」に出会えなければ『だめんず』もなかったから。私より絵がうまいギャグ漫画家は山ほどいる。そんな中で私を選んでくれたっていうのは、本当にありがたかったです。『だめんず』の連載をしていたときは、「私を取材してください」って言ってくれる人がいたり、人から人につながって「私の友達にだめんずがいるよ」と紹介を受けたり。だめんずって、ずっと昔からいたと思うんですが、“腐女子”や“歴女”のように、それをカテゴライズして名前を付けたことで、文化として認知されたように思います。この作品がなかったら、自分はどういう人生だったのかなって思うときはありますね。

『だめんず・うぉ~か~』で一躍人気漫画家に

世界で一番面白い人を失って――人生最大の試練

人生で一番試練だなって思ったのは、20242月に夫(映画プロデューサー/叶井俊太郎氏)が亡くなった時ですね。それをきっかけに、自分が人間として変わってしまったという自覚がある。結婚生活で、恋愛的な意味で夫がいたかっていうと必ずしもそうではない。でも、やっぱりかけがえのない存在だったから。人間として世界で一番面白いぐらいに思っていたから。そういう存在を亡くしたことで、自分が変わりましたよね。強くもなったけれど、弱くもなりました。一番最初に、花開く老女の話をしましたけど、私はまったくそうはなれない。夫を亡くしたことが重荷となってしまって。私、恋愛体質なので。例えば、恋愛をテーマにした曲を聴くと、昔好きだった人とか恋愛した人とか、そういう人のことを思い描くタイプなんです。自分の恋の歌として聞こえてくる。今は全部、夫を思い出す歌に聞こえるんです。特に失恋ソング。これ、大きな変化で、今までは私の恋愛の歌だなって、うっとりしながら聞いていたのに、今はもうみんな夫の歌になってしまって、泣けてしまって、音楽聴きながら作業とかできなくなりましたね。メンタルは結構安定している方なのに。

花開かない私――重しではなかった夫の不在

旅先で娘さんを撮影する叶井氏(上)。家族を思う優しい父親だった

夫の話をしながら泣いたりとかって、今でもしちゃうんですよ。いつも思い出しているわけじゃないんですけど。だから、いろいろだなと思った。母とか見ながら。夫がいなくなったことで、人生が花開くおばあちゃんたちがいて。母以外にも、そういうおばあさんの取材とかしていたんですよ。「今が一番楽しい」って言っている老女が。それまではずっと我慢している人生で、夫や子供のために生きてきた。夫がいなくなって、子供が独り立ちして、ようやく好きなように自分の人生を使える。一方、私は何も我慢しないで生きてきて、だからこそ、夫っていう面白い人間がいなくなったことで、夫が重しじゃなかった分、ただただ悲しいだけ。私の人生の中で一番の面白いものがなくなったという、途方もない喪失感。尊敬もしていたし。私が絶対に到達できない物の発想とかがあったし。こういう風に泣いたりすることは一生続くかもしれないし、そう思うとちょっと不自由ではありますよね。これから一生、音楽は夫のこととして聞くしかないのかとか。これ結構きつい縛りですよ。そこが変わる気配がないんですね。

私しか知らない夫の面白さを世に遺すために

取材時近影

X(旧Twitter)については、ここまで自分がインフルエンサー的になるってまったく思ってなかったんです。始めた時は漫画の宣伝になればいいかなとか、漫画を発表する場になればいいなぐらいの感覚で始めたんですが。今はたびたび炎上するようなアカウントになってしまって。すぐニュースになって、すぐ炎上するから、私、基本的には穏やかな人間なのに、めちゃめちゃ炎上する。全然そんなつもりないのに。でもまあ、もうしょうがないなと思って、もうそういう役回りになってしまった。こうなったら発言していくしかないなっていうふうに、ある程度腹をくくっているので。これもね、やっぱりいろんなことを経て、いろんなものを手放したから言えることでもあるんです。10年前とか20年前だったらここまでは言えてないから。もう54歳で、いろんなものを手放す覚悟になってきた。腹をくくれるところもあるし、そういう意味では夫を亡くしたってこともやっぱりあって、死が身近になっているんですよね。夫が目の前で息を引き取るのを見たから。夫は、「俺はいつ死んでも大丈夫」みたいなことを言っていて、なんでかっていうと、やりたいことを常にやり尽くしてきたから。私もそれにだんだん近づいていくだけですよ。夫の境地にはなかなか達しないけど。いつ死んでもいいように生きる。夫のことを少しでも世に出してから死にたい。夫っていう、めちゃくちゃ面白い人の面白い考え方とか行動とか、どういうふうに生きたかとか、私しか知らないことがたくさんあるので、私がそれを抱えたまま死んだらどこにも残らない。自分自身のことよりも、夫のことを世の中に知らしめるっていうことの方が、優先順位的には高いかもしれません。

"普通の女子"を諦めた日――SNSが与えた使命

Xで積極的に意見を発信している

SNSでいろいろ発信していくことについては、そういうことを絶対にしようって思ってきたわけじゃないんですよ。漫画家としては一段落着いてしまって、ここから先どうやって生きていくかなっていうのは、50歳手前ぐらいから考えていたんですが、ここから細々と物を書いたり、マスコミに出たりするような仕事をしながら、例えば田舎に引っ越して、地元の人たちと交流する、そういう人生もいいなとか夢はあったんですけど、今はそういう夢はなくなっちゃいましたね。発信するっていうことが使命になってしまったから。小さい幸せを追い求める資格がなくなった。もう私、社会的に自分を見たときに、「それを目指しちゃいけないでしょ、あんた」っていう自分がいる。SNSで炎上し続けていることが私をそうさせた。炎上するってことは、自分に対する賛同意見も反対意見も、どっちもパワーになっちゃうんですよ。バッシングって嫌だけれど、そういうのも含め、世論を動かせてしまう。いつの間にか、武器を渡されちゃった感じです。持つつもりはなかったけど、持ってしまったから、だから社会的な使命として「あんた、これもうね、ここで言論やめたらいかんでしょ」っていう自分がいる。社会的な自分が言っていることだから、もうここからはやっぱりそういう世界に行くしかないなっていうふうに思ってきていますね。覚悟ができてしまった。夫を亡くしたこともきっかけ、炎上し続けていることもきっかけ。「炎上上等でしょ」とか言われることあるんですけど、できればしたくない。嫌なことは嫌なんですけど、一方で、あの人もこの人も言ってくれないなら、じゃあ私しかいないか、みたいになってしまったから。強いことを言えば言うほど、メディアからのオファーは減ってしまうんですけど。テレビとかで言えないこともでもSNSだと言えるから、もうメディアに呼ばれなくてもいいって、ちょっと覚悟しているから。“普通の女子”は諦めざるを得なくなっちゃったんですね。本当はそうじゃない生き方をぼんやり思ったりもしていたんですけど。

私の立ち位置だからこそ発信する責任がある

取材時近影

Xを始めた時からそうなんですけど、漫画の投稿が一番「いいね」が少ないんです。残念ながら認めざるを得ないんですけど、私のフォロワーは私に漫画を求めてないんですよ、悔しいけど(笑)。ほんとしょうもないこと、例えば「犬の散歩に行ってずぶ濡れになりました」みたいな一言の方が「いいね」があったりして。私の支持者、アンチともに私の発言であったり、社会に対する見方であったり、そっちを求めているのは痛いほどわかるから、そっちを強化しながら生きていくっていう方向にどうしてもなってしまう。SNS始めたのは2021年で、ワクチンとかマスクとか自粛とか、コロナ対策や世間の反応に対して言いたいことがいっぱいあって、それに蓋ができなかったんですよ。当時からやっぱり炎上し続けている。そこでもうめちゃくちゃ叩かれたから、なんかそれをずっとやってきて、今に至って。今もやっぱり言いたいことがたくさんある。私って、わりと中途半端な位置だから、インフルエンサーとして決してそんなにフォロワー数が多い方じゃないんですけど、メディアにも出ているから、私が言うことって、スポーツ新聞とかに取り上げられることが多い。一方で、私より断然フォロワー数が多いインフルエンサーとして有名な人もたくさんいますけど、一般の人が知らない人だと、なかなかその意見が表に出にくい。SNSだけで知られている人と、私のような半分ずつみたいな人間の役割はまた別だと思っている。だからこそ、私の立場で発信していく責任があると思っています。

倉田真由美氏 プロフィール:

1971生まれ。漫画家。一橋大学卒業後、「ヤングマガジン」の「ギャグ大賞」で大賞受賞。2000年、だめ男を好きになる女たちを描いた「週刊SPA!」(扶桑社)の連載『だめんず・うぉ~か~』で大ブレイク。マンガ・エッセイなどの執筆活動のほかにテレビ・ラジオ出演、トークショーと多方面で活躍中。最新刊は『夫が「家で死ぬ」と決めた日』(小学館)

取材後記:思わず笑ってしまう、おもしろ要素満載の大ヒット作品『だめんず・うぉ~か~』で知られる倉田先生。インタビューの前半は、幼少期の規格外のエピソードをお聞かせいただくなど、笑いのあふれる現場となりましたが、取材が進むにつれて雰囲気は一変、亡き夫・叶井俊太郎さんへの思いや、社会に対して覚悟を持って発信されている心情をお伺いし、一同、心を強く打たれました。引き続き倉田先生だからこその発信に耳を傾け、応援していきたいと思います。

取材/守安法子(編集長) ライター/長澤千晴 撮影/久世薫

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