
スポーツ選手といえば、才能や身体にも恵まれていると想像する人は多いでしょう。ですが、中には病気や体質を克服して競技に挑み、花開く人もいます。ソフトボールのオリンピック日本代表となった峰幸代選手もそのひとり。幼い頃にぜんそくを患ったものの、スポーツとともに生き、やがてソフトボールに出会い、才能を開花させていきます。北京オリンピック、そして一度引退した後に復帰。東京オリンピック代表となり、見事金メダルを獲得。そんな不屈な精神を持って生きてきた彼女は、引退を迎え、その経験を胸に新しい道へと歩き出しました。
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◆見どころ◆
▶世界ジュニア選手権・北京オリンピックでの経験と葛藤。
▶一度の引退を経て東京オリンピックで再び金メダルを掴む復活劇。
▶引退後はメンタルサポート・教育分野へと歩み出す新しい挑戦。
人生はアップデート。世界ジュニア選手権から北京オリンピック。そして燃え尽き引退へ
──オリンピックという世界の大舞台の前に、世界ジュニア選手権代表で海外経験をされていますよね。日立&ルネサス高崎入団後ということなのですが…。
これも自分の運がいいところだと思っているんですよね。世界ジュニア選手権は毎年あるわけではなく、4年に1度の大会です。U19の大会で、あのときは私のひとつ下の学年がメインの大会でした。ただ私ともうひとりの選手だけ、早生まれということでひとつ上なんですが出場できました。自分はたまたま19歳で出ることができ、キャプテンまで任せてもらいました。とても運がいいと思います。日本ではコンディションもよく自信がありました。ですが結果は納得いくものではありませんでした。初めての対海外選手の試合に自分が思う実力を出しきれないし、環境にも慣れませんでした。開催地はオランダでしたが、食事の問題だけでなく、試合時間が夜11時からだったりと、とりまく環境に対応できず、そのときに「あ、私が目指しているのはこういう世界なんだ」と実感しました。自分がいつもと違う環境では力が出せなかったという体験は「こういう世界で結果を残すことを考えなければ」という意識を持たせてくれました。意識のアップデートのきっかけになったんです。
──悔しさをよりバネにするんですね。海外での違いを知ることも力にできるのは強さの秘訣なのかもしれません。その経験の後に北京オリンピックに挑んでみて、どうでしたか?
私は選手としては早咲きで、北京オリンピックに出場したのは20歳。その若さで「オリンピックで金メダルを獲る」という夢が叶いましたが、どこか満たされないものがありました。目指していたものに辿り着いたのに満たされないのはなぜなのか、自分でも疑問でした。でももう一度オリンピックに出て、その理由を確かめる術はありません。北京オリンピックを最後に、ソフトボールが競技種目から外れたからです。
──燃え尽きてしまったのでしょうか。
もちろんオリンピックで金メダルが穫れたことは嬉しかったんですが、同時にそこで目標を見失ってしまいました。求められることも深くなり、評価も厳しくなる。いつも頑張っているのに、ちょっと気を抜くと批判されることもありました。メダリストのくせに…という評価の仕方が私はとても嫌でした。若かったのもあって、私は私なのにという思いが出てきて、自分が思い描いていた「金メダリスト」の姿と実際の立場のギャップに悩むこともありました。そんなぼんやりとした感覚の中で選手生活を続けましたが、チームが売却されることになり、一度ソフトボールから離れてみようと引退を決めました。
もう一度…。戻ってきたオリンピックの夢を東京で掴み取る
──一度引退されたときは、何か展望があったのでしょうか。
将来の展望は何もなかったです。ただそれまで走り続けていたので、親に感謝は伝えたいと1年はしっかり休もうと思いました。でも頭のどこかでは、いつかまたソフトボールをやりたいなと考えていました。そんなとき、2020年のオリンピックが東京開催に決まったというニュースがやっていました。しかも、その大会では野球・ソフトボール競技が復活すると決まったんです。そのニュースを聞いたとき、もう一度、オリンピックに出たい。絶対もう一度やらなければ後悔する。直感でそう思いました。そして2016年に復活を決意し、ルネサス高崎のライバルだったトヨタ自動車レッドテリアーズに入りました。古巣のライバルだったこともあり当時はかなり批判もありました。ただ「復帰してくれて嬉しい」という声もたくさんいただいて。応援してくれる方のためにも、もう一度頑張ろうと思いました。
──ポジティブですね。チームが代わるとバッテリーも代わりますが、その点はどうだったんでしょうか。
新しいチームではアメリカのエースがいました。日本のエースとアメリカのエース、両方捕れるキャッチャーはなかなかいないじゃないですか。その経験があったからこそ、キャッチャーとして成長することができました。ただブランクもあり、レベルもパフォーマンスもなかなか上がってきませんでした。一回体重が落ちてしまったので筋肉も減ってガリガリでした。代表に選ばれる選手のレベルになるのは思っていた以上に大変でした。はっきりと自信を持てる状況ではありませんでした。
──そんな状況を乗り越えての代表入りだったんですね。
代表監督の宇津木麗華さんに招集していただきました。私が現役復帰したときはいい気はしなかったと思います。宇津木さんはルネサス高崎の監督だったので「なんでトヨタで復帰したのか」と思っていたかもしれません。復帰してからの成績や努力も評価してくださって2019年冬に「峰がいないと金メダルが穫れないから」と声をかけていただきました。
──そして本当に東京オリンピックで金メダルを取られたんですね。夢を確実に叶えるコツは目標のクリアさにあるんでしょうか。
どこにいても何があっても、どこに行きたいのかはちゃんと見えています。そのための努力が必ずそこに繋がっているという自信もありました。そしてその道にレールをきちんと引いてくれる指導者がいたことは本当に幸せでした。今、自分でもレールを引く側になりましたが、そのありがたさが身に沁みました。そんな指導者が周りにいてくれたから、努力が実を結ぶと自信に繋がったのだと思います。
二度目の引退。ソフトボールに育てられた先に見たセカンドキャリアの夢
──東京オリンピックが終わって、2度目の引退をされたんですよね。
はい。もうギリギリまでやったと思えた引退でした。けっこうボロボロで金メダルを獲ってやめると決めていました。肩も壊して強いブロック注射も週に1本打つような状態でした。金メダルが見えていなければそこまで頑張っていなかったと思います。「2度目のオリンピックに挑戦する」と選択した自分に感謝したいなと思っています。選ばれなくても、金メダルが穫れなくても、チャレンジするかしないかということに価値があったと今はわかります。ちゃんと選択できた自分だから今があると思います。
──9月にトヨタ自動車も辞められて独立されるとのことですが、今後、描いているものについて伺えますか。
引退してから今年で4年になります。会社の業務をしつつ、子供たち中心に様々な方のソフトボール人生を応援する活動を3年間していました。
活動を通して、選手のレベルアップサポートも良いなと感じますが、それ以上に子供に関わる保護者や指導者によって選手や子供が変わることに気づきました。
もっとより良い競技生活や人生にしてもらえるよう、今後は教育関係とメンタルサポートの仕事も携わっていきます。どんな練習をどんな気持ちで行くか。そのアプローチで結果も変わります。どんな結果が得られるかという心の掛け合わせが必要なときもあります。
今後は教育関係とメンタルサポートの仕事を考えています。
──子どもたちの未来のための仕事ですね。どんなことを伝えたいですか。
父がもし「この子はぜんそくだから」とスポーツさせることを諦めていたら今の自分はいません。だからこそ、子どもたち、そして周りの大人の方々には「未来への可能性を信じて進めるような人」が増えて欲しいと思っています。ビハインドだと思っている部分って自分がビハインドだと思っているだけで、意外に自分の強みになったりもするんです。拒否すればそれは敵になってしまうけれど、一緒に抱えて共存して欲しいです。そのビハインドを抱えて頑張っている姿は、神様が見ているものだし、他の人も見ている。そしてその姿に心を動かされる人もいるし、味方になってくれる人もいる。それはいつか明るい未来への道へ繋がっていきます。
そして自分の可能性は自分が思っているより、ずっと大きいことに出来るだけ早く気づいて欲しいです。今できないこと、難しいなと思っていることでもいつかは出来るようになります。私はぜんそくという病気を持ってスポーツとは無縁だと思っていましたが、スポーツ選手として活躍することができました。
今の自分を悲観することなく、大きな可能性を信じ続けてほしいなと思います。
(了)
インタビュー・ライター:久世薫
峰幸代(みねゆきよ) プロフィール:
メンタルパフォーマンスコーチ。元ソフトボール日本代表選手キャッチャー。北京オリンピックに20歳で参加し、金メダルを獲得。後に引退するが2020年開催の東京オリンピックにソフトボールが復活したことで、出場を目指して現役復帰。金メダルを獲得する。その後2021年のシーズン終了と同時に2度目に引退。現在は長年の経験を活かし、セカンドキャリアとしてメンタルサポートや指導に取り組む。
Instagram:https://www.instagram.com/mine.yukiyo/
取材を終えて
オリンピックの金メダリスト。その称号を持つには稀有な才能、特に身体能力に恵まれた選ばれた人が得られるものだと思い込んでいたことを、この取材を通じて知ることになりました。そしてそういった思い込みは、自分が何かにチャレンジしようとしたときに自分の可能性を閉ざしかねないと、峰さんの生き方がから学ばせていただきました。もしぜんそくだからとスポーツを始めなければ峰さんは金メダリストになかったように、誰にでも「自分なんか」と思えば辿り着けない未来があるのかもしれません。そしてそれは同時に「特別な人」と私達が感じる人たちも、人間だということに気付かされます。峰さんの努力や選択、目的に対するアプローチの姿勢は、多くの可能性を得るチャンスを私達にも与えてくれると思える取材でした。