目標は「全員起業!」次世代起業家育成のイノベーションを起こしたスゴい人!中村伊知哉氏▶DAY1

「日本ではイノベーションが起こりにくい」――。そんな風に語られることは少なくありません。一方で情報化社会は進み、ビジネスにグローバルな視点は不可欠となってきています。

今、日本の未来のために、心ある次世代起業家を育てる試みに挑戦しているのが、元官僚であり、情報とメディアの専門家である中村伊知哉氏。イノベーションはワクワクするような挑戦から始まるという考えのもと、中村氏は2020年に「iU 情報経営イノベーション専門職大学」を開校。時代の変化を見つめる彼は、学生にこう問いかけます。「それ、おもしろい?」挑戦する人の夢と希望に未来の可能性を信じる中村伊知哉氏にご自身の軌跡について伺いました。

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家業が失敗し夜逃げ。京都で極貧生活を過ごした幼少期

──情報のプロフェッショナルから新しい大学を作る挑戦をされた中村学長の背景を伺えますか。幼少期はどんなお子さんだったのでしょうか。

洗濯屋をしていた実家の商売が立ち行かなくなりました。夜逃げして母の出身である京都に来たのが小学校1年のときです。それからは日本で下から数えた方が早いんじゃないかというくらいの貧しい生活でした。母と妹と三人でトイレも共同の六畳一間で暮らしていました。

──中学は国立の京都教育大学附属に進学されたそうですね。中学受験されたのは何がきっかけだったのでしょうか。

私は当時、校長からグーで殴られるようなきかん気が強い子どもだったんですが、音楽、技術、図画工作、家庭科が得意だったんです。

そこで当時の担任の先生から「国立はお金もかからないし、半分はくじだからいいと思うよ」と勧められて、受験することにしました。

「向いているよ」と担任から勧められて京都教育大学附属校へ進学

──あまり入試に直結する印象のない教科ばかりなのですが、中学受験は4教科ではなかったのでしょうか?

4教科もありますが、当時は全教科でした。国算理社に加えて、音楽、図工、家庭科、体育とありましたね。入学したら先生が「お前か! 家庭科で満点取ったヤツは!」と声をかけられました。附属中学に入ったのは、人生においてひとつの転機だったと思います。

──小学校とはかなり環境が変わったのでは?

基本的に受験をしてこういう学校に来るので、ご家庭がきちんとした子が多かったですね。そういう子たちの中で、自分はかなり違うタイプだとは思っていました。

僕は勉強ができるほうでもないので、コンプレックスの塊でしたね。でも勉強は全然しなかったんですよ。中学から野球部に入っていて、そっちに夢中でした。赤点を取ることもありました。この学校は当時、赤点を取っても高校には進学できたので、高校になっても野球に邁進していました。

──その状況から京都大学への進学は凄いですね。短期で集中するタイプですか?

野球も高校になってから腰を故障して、挫折しました。別にプロになって野球で食べていこうと思っていたわけではないんですが、他に何で将来身を立てるか、見通しは全くなかった。

高校2年に上がる頃になると、進路も考え始めました。うちは母子家庭でしたので、大学に行って社会で働けるようにならないと母親も困ると言っていて。

野球も断念したので、残る選択肢が勉強だったんです。勉強しかないと、勉強でどうにかなることは楽なんです。

就職も考えたものの厳しい労働環境に「身を立てるなら勉強の方がいい」と京都大学へ進学

──受験期に勉強の方が楽というのは、なかなか強さを感じます。

京都なので任天堂がありまして、大学に落ちたらそこにいこうなんて考えていました。また、餃子の王将の本社もあって、当時アルバイトの時給も1,900円くらいだったので「これはすごく儲かるぞ」と考えることもありました。

でも、実際厨房の様子を見てみると大変に思えました。自分は1日で死ぬかもしれない。そう思うくらいハードです。だったら勉強の方がいいんじゃないかと腹を決めました。

…と、いうか初めてちゃんと勉強したかもしれません。当然、自分の家庭環境では浪人は許されないので、絶対現役で入らなければなりません。プレッシャーはありました。伸び悩む時期はありませんでした。短気な性分もあって、短期で集中する勉強は効果がありました。今でも短期集中が基本です。長期的に集中が必要なときも短期集中の連続と考えて、やりたいことを積み重ねています。

──勉強に行き詰まる人には勇気が湧いてくるお話です。進学されたのは経済学部ですが、ご実家が自営業だった影響なのでしょうか。

それは全くないですね。家から通える国公立大学というのが進路先の条件だったんですが、京都大学の経済学部は楽だと知り、ここがいいと思いました。京都大学はアメフトが強い時期があったのですが、法学部や工学部だった学生もアメフト部に入ると経済学部に編入する学生も多かった。入学してから出席はあまりしていませんでした。ただ単位の取り方は研究していたので落としはしませんでした。

──どんな大学生活を送られていたんですか?

大学は好きで、授業には出ないけれど、毎日行っていました。軽音部に入ってバンドをしていました。ロックバンド『少年ナイフ』にディレクターとして関わっていました。だからよく「自分は京都大学の軽音楽部卒」って言ってます(笑)。アルバイトもけっこうしていました。普通のバイトをしつつ、家庭教師もやっていたので、当時はかなり稼いでいましたね。最初に就職したときの初任給より稼いでいました。

謳歌した大学生活と就職活動全滅体験。大人は騙せないと実感

──大学生活は音楽にもかなり本気で取り組まれていたんですね。

もしかしたら、音楽で食べていけるかもしれないとも思ったんですが、当時周りにいた連中が凄い連中だったんですよ。自分と同じサークルの中に世界を目指して活躍できるようなヤツがいるのを目の当たりにして、もし彼らについていくなら自分も音楽で食べていけたかもしれないけど、サークルの中だけでこんな凄いヤツらがいるのに世界なんて無理だろうと思いました。そして別の道を行こうと考えて、勉強した方が楽だと判断しました。

──大学受験のときを思い出すエピソードですね。そこから就活は順調だったんでしょうか。

就活は見事に全部落ちました。銀行も電電公社もテレビ局も受けて全滅です。その時に世間を知りました。面接に出てくる大人は一発で「お前は大学で遊んでいて勉強していなかったな」ってわかる。就活で出会ったすごい大人たちに「お前は駄目だ」って言われ続けて「ああ、自分は駄目だ」って思っちゃいました。

実はこの体験が今、iUをつくる上で生きています。この学校では学生に早い段階からいろんな大人に会わせたいと考えています。大学4年になるくらいまでは、たいていの子供が付き合う大人って、親や親戚、学校の先生くらいでしょう。自分自身が一度言われてスイッチが入るタイプですので、そういう「一線にいる大人にたくさん出会う機会」が成長に繋がると思っています。

──逆境も学びになっているんですね。就職活動が失敗されて官僚を目指すことになったのですか。

就職が全然駄目だったので、勉強してどうにかしようと、公務員試験を次の年に受けることにしました。そのためにわざと必要単位を落として留年しました。翌年は残りの単位をいくつか取るだけで、後は公務員試験のための勉強に時間を使えます。実は今でもあの頃のことは夢に見ます。普通と違って「単位足りちゃって卒業しなきゃならない!どうしよう!」って夢なんですが(笑)

(2DAYに続く)

                                                                                                                                                                                                                                                    インタビュー・ライター:久世薫
中村伊知哉(なかむらいちや) プロフィール:
iU(情報経営イノベーション専門職大学)学長。京都大学経済学部に在学中、ロックバンド『少年ナイフ』のディレクターを務める。卒業後は旧郵政省に入省。インターネット政策を担当する。後に省庁再編を携わり、それを最後に退官。MITメディアラボ客員教授やスタンフォード日本センター研究部門所長等を経て、慶應義塾大学大学院にて博士号を取得。現在は様々な企業や団体で重要ポストを兼任している。

公式サイト:http://www.ichiya.org/
X:https://x.com/ichiyanakamura
iU 情報経営イノベーション専門職大学:https://www.i-u.ac.jp/

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