カレー好きなら聞いたことがあるだろう、神田カレーグランプリ。千代田区 神田には全国でも有数の400店以上のカレー店がひしめく。その神田で2011年から開催される神田カレーグランプリを立ち上げたのが 中俣拓哉(なかまた たくや)氏。日本人にとってカレーは家庭料理の代表格で、だれにでも大切な味が一つはあるだろう。まさに日本の食文化の代表メニュー、カレーの激戦区でナンバーワンを選ぶこのイベントを主催する氏にここまでの生き方とカレーにかける意気込みを伺った。
カレーのパワーで日本を元気に!
自身の性格を決定づけた、小学校時代の辛い体験
1969年に埼玉県で生まれ、上尾市で育ちました。基本的には引っ込み思案で、目立つのが嫌いな子どもでしたね。手塚治虫の漫画が大好きな子どもでした。転機となったのは小学校時代5年生の時に経験した転校です。上尾市の公団の団地で生まれ育っていたのですが、父が頑張って一戸建てを立ててくれました。同じ上尾市内なんですけれど少し距離があり、学区が変わったので学校を転校することになりました。今となってはどうしてそうしたのか自分でも理由がわからないのですが、僕なりにその新しい環境で頑張らなくちゃ!とか、溶け込まなくちゃ!思ったんでしょうね。引っ込み思案の性格を押して、無理に明るいキャラでみんなと接してしまったんです。
ところが新しい学校では全然受け入れられなくて。最初こそよかったんだけれど、ほどなくクラス全員に無視されるという状況になったんです。いわゆるいじめですね。無理して作ったキャラに原因があったんでしょうか。それまでは休み時間になるとみんなで運動場に出て、ドッジボールをしていたのが、急に教室に一人残って漫画を描くように変わったので担任の先生も気が付きますよね。ホームルームの時間にみんなに、どんなにいじめがよくないかというのを根気強く話をしてくださって。そのおかげか、何か月かしたらまた仲間に入れてもらえるようになって、いじめは終わったんです。だけど小学校5年生の転校生にとってその何か月かというのは本当に地獄のような日々でした。その時の僕には強烈な思い出となり、またトラウマとなりました。その時は死のうかなとか、いじめの首謀者を殺しに行こうかな。なんてことを本気で考えていたんですよ。だけど、心配をかけたくなかったので両親には一切話しませんでした自宅ではいたって普通にふるまっていました。
石橋を3回叩いても絶対に渡らない性格に
中学校時代には、バスケットボール部に入りました。背が低いのがコンプレックスだったので、身長が伸びるんじゃないかという期待もありましたね(笑)。そんな僕でも時にはベンチ入りするときもありまして。そうするともう心は落ち着かないんですよ。他のメンバーを差し置いて自分がベンチに座ってしまうなんてだめだろうと考えてしまう。レギュラーになる、ましてやスタメンなんて、もっての外だと考えていました。それを目指してみんな練習をしているのですが(笑)、僕自身にとってはいたたまれない状況だったんです。目立ってしまうとまたいじめられるかもしれない。スタメンも、レギュラー入りもベンチにさえも入りたくない。でも体を動かすのは好きだからバスケットボールはやりたい。そんな混乱した気持ちでバスケットボールをやっていました。
勉強もできない方ではなかったのですが、とにかく目立ちたくない。高校受験だって上を目指してチャレンジするとかは考えられないし、絶対に失敗したくなくて。自分の実力からみて必ず合格できる安全校を選びました。ところが入学してみると成績が学年で一番になってしまったんです。困りましたね。先生にもものすごく期待されて、君ならこの高校から現役で侑目国立大学に入れる!って言われたり、成績上位の同級生からもどんな勉強をしているのか方法を教えてほしいなんて言われたりしてね。もうそれがすごく嫌で、次には成績をいかに下げるかと考えて試験を受けていました。自分の子ども達にはいつも勉強を頑張れと言っているので、絶対こんな話言えないですけれどね(笑)。
大人になっても性格は引っ込み思案のままだった
そんなこんなで、もちろん大学も当然チャレンジなどはせず、行けるところでいい。と選びました。スポーツもバスケのようにチームプレーで気を遣うのが嫌で、高校からはテニスを始めました。個人プレーですから自分の思うまま気ままにできるだろうと思っていました。ところが今度はこんな私に負けてしまう相手に申し訳なくて。負けてあげないといけないと思ったり、ダブルスでは満々のペアの気持ちの温度感に全くついていけない自分がいたりして。いつでもどこでも周りが気になってしまって、自分自身ではいられない。それが自分でもすごく嫌だったんですが、だからと言って何かを前向きに取り組むという方向に転じる勇気はありませんでした。どこかでいつもブレーキをかけて生きてきました。子ども時代のいじめというのは私自身の体験から言っても、なかなか忘れたり払しょくしたりできるものではないので本当に心から無くなってほしいと願います。
人の人生の幸せなタイミングに関わる仕事へ
大学を卒業し、1992年に積水ハウスへ営業として就職しました。モデルルームで注文住宅販売したりしました。人の長い人生を支える仕事に携われたのは嬉しかったですね。それも人が家を買う時ってだいたいはその人の人生の幸せなタイミングですよね。お子さんが生まれたりしてご家族連れで見学に来られる。そんな人達のお手伝いをできる、やりがいがありました。ところが仕事に取り組むときもやはりその後ろ向きな性格が邪魔をしましたし、どこかで目立たないように凡庸にいようとする。相変らずそんな自分も嫌いでした。それなのに、会社の先輩や上司を見ていると何年後の自分のキャリアというか生活のモデルが見えてきて、営業成績が良くて表彰されたりもしましたが、なんとなくサラリーマンとして順調に人生を設計していくよりも、もっとと何かを創り出すような、クリエイティブな仕事がしてみたいなと思って、5年で退職しました。この引っ込み思案な性格を払拭して、もっと違うことができるんじゃないかという思いもありましたね。
心機一転、ITスキルを学び始める
1997年、28歳の時、それまでの貯金をはたいてマッキントッシュを買ってデジタルハリウッドに通い始めました。まだ2ギガがすげー!みたいな時代でしたよ。デジタルハリウッドでは、アプリケーションデザインなどの基本的なことから始まり、ちょうどWEBが広がり始めた頃だったのでHTMLを学んだり、dobeのイラストレーターとかPhotoshopなども一通りやりました。当時はバブルが弾けて、景気が悪くてね、知識を持っていても未経験者が就職できる先なんかも全然なかったんですよ。先行きが不透明だから新規採用をどこも手控えていた時代です。これからは映像制作の時代が来る!と思って受けた制作会社の3回目の面接まで進んだ時、「うちの作品はこれだよ」と見せられたのが、AV(アダルトビデオ)の映像作品だったんです(笑)。「え!?」となりましたけれど、その時に言われたのが、「今はうちはAV制作しているけれど、将来的には幼児教育ビデオを制作する計画があるから。」と言われて、じゃあその将来に期待してみようと思って入社したんです。アダルトビデオの会社といっても、営業部や制作部とかちゃんとあって、いろいろ勉強になりました。
広告代理店へ転職
でもやはりもう少し紙媒体も含めたいろんな制作がやりたくて、広告代理店に転職しました。WEBにおけるマーケティングなんかが主流になってきたころで、J-phoneのプロモーションの企画とかCCレモンの販促グッズなどの話題作に携われたのは面白かったですね。それからさらにエニックス(その後スクエア・エニックス)の事業開発室に転職しました。実は僕はゲームを全然しないのですが、ちょうどスクエニがゲーム以外の事業を立ち上げたいという事だったので採用となりました。当時はインターネット過渡期で、これからはマルチメディアが来る!といわれていた時代でね、USENが光ファイバーを頑張って広げていたころでした。
これからインフラが整ってきて大容量の映像が流せる時代が来るから、エニックス社としてはエンタメ要素を持った映像コンテンツを新たに創ろうというトップの考えがありました。当時としてはこの発想はかなり斬新だったと思います。競合社というのはありませんでした。とにかく新しい企画を練って毎日いろんな方にお会いしました。アスキーの西さん、CCC増田社長やダイワハウスの樋口社長、早稲田大学の奥島総長などの錚々たる方々に直接お会いして新規事業計画のプレゼンをさせていただいたのは良い経験となりました。
(2日目へつづく)
インタビュー:編集部
中俣拓哉氏プロフィール:
1969年 埼玉県生まれ
神田カレーグランプリ実行委員会 代表
2024年神田カレーグランプリ決定戦!