時代を映すファッションデザイナーとして世界で活躍するスゴい人!DAY1▶白浜利司子様

今日から2日間ご紹介するのは、東京在住のファッションデザイナー白浜利司子様。高度経済成長期を抜けて日本中がバブルに沸いた時代から今日にいたるまで現役のファッションデザイナーとして活躍をしている女性です。そのデザインはいつの時代も新鮮な驚きを映している。ファッションとは何か。「着るもの」としての洋服に「伝える力」をのせて、彼女のデザインは社会に、世界に「今のままでいいの?」と問いかける。長年にわたって飽くことない探求心を形にするその情熱の源を伺いました。

さあ、「RITSUKO SHIAHAMA」ブランドデザイナー 白浜利司子様 の登場です!

 

  NEVER GIVE UP  

▶今日のポイント

・英文科卒、ファッションデザイナー

・人間関係のもつれで生命の危機に

・パリでコレクションしたい!夢を形にする力

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空想が大好きだった少女時代

東京生まれ東京育ちです。まだ緑が豊かだった世田谷区で育ちました。小さな時はお転婆で、木や塀に上って落ちたりするような女の子でした。小学校の頃はストーリー付きで絵を描くのが好きで、お友達に頼まれたノートが何冊も積みあがっている状態でしたから、授業中もずっと絵を描いていました(笑)。その子のためだけの空想・妄想ストーリーを作るのがとても嬉しくて楽しくて仕方がなかったです。カトリックの学校に通っていたのですが、シスターにも漫画家になりたいと話していました。

カトリックの学校は保護者が参加する学校行事が多く、私の母はいつも学校のバザーで売上トップを飾る人で、それがきっかけで起業して自分のお店を開いたんです。

父は東京大学を卒業した博識な人で、母がアパレルの会社を興してからは二人の子供の子育てを引き受けていました。今でいう「イクメン」ですね。晩御飯の時に開かれる「白浜アカデミー」というのが楽しくてね。味の素のグルタミン酸の化学式を教えてくれたり、ギリシャ数字由来のラテン単語の暗唱だったり。不明点があれば、食事中でも辞書を引いたりして、なかなかご飯は進まなかったです(笑)。

母は舞台鑑賞が趣味で、よく一緒に連れて行ってくれました。照明で白く輝くステージを皆で作り上げていくことに感動した記憶があります。ですから中学校で創作ダンスの舞台があった際には、率先して演出を担当しました。「漁師と海」という題名でね。脚本家兼演出家兼音楽監督兼振付師みたいな(笑)。嵐の海や夕日輝く凪の海、無事大漁で帰路につく漁師の姿を表現する振り付けをして、クラス全員で踊りました

 

英文科からファッションデザイナーへ

幼稚園から高校まで通ったカトリックの学校から成蹊大学英文科へ進みました。大学時代は通訳か翻訳家を目指そうかと考えていたのですが、その頃には母親がブティックを2つとアパレルを経営していたというのもあって、恵比寿のバンタンデザイン研究所で服飾クリエイティブの勉強をすることにしました。その後、アパレルの修行をしようと、当時一世を風靡したアルファ・キュービックへ就職しました。配属されたのはハイエンドのブランドでしたので、新人とはいえ責任は重大。23歳から3年半、人の3倍は働きましたね。髪を振り乱して、目の下に隈ができている私を見た大学時代の友人や祖母にはかなり心配されました(笑)。ファッションと言えば華やかなものだろう、社会に出ればさぞかし磨かれキレイになるだろうという大方の期待とは真逆の、昼も夜も休みもなく仕事に没頭していましたから。そこで4年間しっかりと勉強させていただいてから、母の会社、株式会社アーモンド・アイへ入社しました。

 取材は新作発表前のショールームで

満を持して、ブランドアップ!

1984年に自分のブランド『RITSUKO SHIRAHAMA』をスタートしました。

社長だった母親は広い人脈を持っていて、ファッション評論家の大内順子さんとはヨーロッパへの買い付けやコレクションなどに同行したりと仲が良かったんですね。大内順子さんに「ブランド立ち上げたのなら、ショーをおやりなさい」と言われて、寝耳に水。当時の私の念頭には「ファッションショー」なんて全くなかったのですが、そのアドバイスに従いともかくやってみることにしました。

一番最初は千駄ヶ谷のオフィスで小さなフロアショーを開催。その次は繊研新聞主催の新人クリエイターズコレクションに出ることになりました。それは銀座のマリオンホールという大ホールでしたからとても緊張したのを覚えています。心臓がバクバクしていました(笑)。そこから1988年の東京コレクションに初進出。1996年にパリ進出を果たすまで日本でのコレクション参加を続けていました

ブランドロゴはシンプルで洗練されたイメージ

ショー・マスト・ゴー・オン

ショーをやるブランドとなると、必然的に毎シーズン新作を発表しなければなりません。秋冬と春夏と。デザインのみならず目新しい素材や技法を求めて世界中を飛び回る生活になりました。私自身は楽しんでやっているとはいえ、支えてくれるスタッフはもちろん私と同じ目線や温度感で仕事をするわけではありません。彼らは彼らの視点やポリシーでファッション界で仕事をしているわけですから当然です。ある意味、デザイナーのエゴにスタッフを付き合わせるような雰囲気と言ってもいいでしょうね。面白い!ついていきたい!と思ってくれるのはほんの一握りです。スタッフをいかに動かすかは本当に難しいものがありました。いざショーを開催したら、今度は各評論家さんの賛否両論のご意見に一喜一憂する。ズタボロに傷ついたりもして、ストレスは多かった日々でしたね。コレクションの幕が明ける直前に準備不足に気が付いて真っ青になって対応するという悪夢を見て、飛び起きるということも多々ありました。

精神的に大打撃を受けて、危うく死にそうに。。。

ブランド創設6年目くらいかな、スタッフのクーデターがあったんですよ。社内の隣の部署のブランドのデザイナーが、「明日ショーをやるのでちょっと見ていただけないですか。」って突然来てね。見に行ったら、私のアシスタントスタッフ全員が彼のショーを手伝っていたんです。もちろん私は一切知りませんでした。私のブランドの仕事だってやることは山積みなのに。それでもお手伝いをしている。あまりにショックで冷静さを保ち、平常心を装おうのに必死でしたが、顔は引きつっていたし、冷や汗は吹き出すしでね。顔見知りのメディアの方も招待されていて、質問されても私は一切知らされていないですから何も答えられず、面子丸つぶれです。あまりのショックで持病の喘息の発作が起きて倒れてしまいました。自宅から運ばれる救急車の中で、今までの人生で経験したことがないような重い呼吸困難に陥ったので、死ぬかもしれないと切実に思いました。1995年に亡くなったテレサテンさんはやはり喘息の発作で亡くなられたので、それに近い状況だったのではないかと思っています。病院では担架に横たわる私に気道確保するために切開するかどうかを検討しているほどでした。幸い気道切開は免れましたが、身体中が管だらけの入院生活を約10日間過ごしました。その社内クーデターをきっかけに社内の雰囲気は当然ながら悪くなっていて、その張本人の彼は退社していましたね。社長は母としても経営者としても判断した部分があると思います。私は私でデザイナーとしてスタッフをうまくマネジメントできない自己嫌悪で自分を責め続ける日々が続きました。このままでは誰かと一緒に何かを成すということができないじゃないか。と思いました。

 

自分を見つめなおすきっかけと出会う

その時に出会ったのが、医学博士である小南奈美子さんが主宰されていたフォーラムでした。今でいうところの自己啓発セミナーとでもいうのかしら。そのセミナーで、人間とは何か、自分と他人とのあり方についてなど、自分を深く洞察する機会を得ました。宣言することは力だ、宣言することでコミットメントすれば周囲の人間が動き始める。そうすると今の自分以上の能力を得ていく。というトレーニングもありました。それをきっかけに私は世界に向かっていこうと決めることができて、「パリに行きます。」と宣言したんです。未来の自分に向かう今日のチャレンジを発見し、動き始めるきっかけになりました。

デザインが洋服に表現力を与える。

パリでコレクションするにはどうしたら?

日本人デザイナーとしてパリコレに出ていたのはいわゆる御三家の三宅一生さん、川久保玲さん、高田賢三さんという錚々たる方たちでね、1990年当時はそこから「日本人デザイナー」としてはブランクがあいていて誰も出ていないという時でした。ですからパリに出たいと思っても全然情報が無かったのです。当時パリでコレクションを発表していた菱沼良樹さんから、パリコレの時期にショールームやサロン(アトモスフェールなどの合同展示会)といったランウェイだけではなく展示会の場があるよと聞きました。マダム・ギュイヨさんというサロン主催者のフランス人の女性を紹介いただき、幸運なことに彼女の目に叶い、アトモスフェールに参加することになりました。日本人の新人クリエイターが新作をパリで発表できる光栄な機会をいただきました。初年度は3件!最初のオーダーシートをきる時、手が震えたのを昨日のようにはっきり覚えていると、社長。(涙)めちゃめちゃ嬉しかったのですが、その後はぱったり・・・中々買い付けのクライアントがつきませんでした。

(2日目に続く)

 取材・校正・編集:NORIKO 撮影:グランツ株式会社

明日の2日目は東京のデザイナーがパリに進出するまでのエネルギッシュなストーリーと、度重なる世界的な事件を経て社会へ発信するファッションの力を得るまでの冷静な活動を伺います。

◆白浜 利司子(しらはま りつこ)氏プロフィール

RITSUKO SHIRAHAMA」ファッションデザイナー

ブランド公式サイト:https://ritsukoshirahama.jp/

東京都出身

成蹊大学 文学部英文学科卒業。

バンタンデザイン研究所 コーディネーター科卒業。

1980年、株式会社アルファ・キュービック入社 アルファ・キュービック・メゾン デザイナー。

1983年、株式会社アーモンド・アイに入社し、1984年『RITSUKO SHIRAHAMA』ブランドアップ。

1988年、東京コレクション初参加。以降シーズン毎に東京コレクションにて作品を発表。

1995年、パリ アトモスフェール展に参加。ヨーロッパ、アメリカ世界10ケ国50店舗へ販売を開始。

1999年、代官山に初めてのショップオープン

2000年、青山にショップオープン。以降、全国の百貨店にショップ展開を始める。

2002年、パリMC2ショールームと契約。プレス ローラン・スシェルと契約。

2006年、スーパーモデル ヘレナ・クリステンセンとコラボレーション

ritsuko shirahama meets helena christensen』を代官山ショップとバーニーズで開催。

2008年、ウズベキスタンより招聘され、LOVE PLANET のショーの開催と地球温暖化の危機を訴える。

2009年、中国での展開をスタート。上海 伊勢丹ショップオープン

2009年、フラワーアーティスト 東信氏の演出により『モードと野菜のインスタレーション』を開催。

2010年、フォトグラファー 蜷川実花氏の撮影により『間伐材を使ったインスタレーション』を開催。

2010年、天津 伊勢丹 ショップオープン

2011年、蘇州 銀泰百貨店 ショップオープン

2014年、RITSUKO SHIRAHAMA 30周年記念イベント。ショーとアーカイブ展を同日開催

 

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