今日ご紹介するのは、アニメやアイドルのグッズ制作で有名な株式会社トップスの近藤社長。コロナ禍において過去最高益をたたき出し、コンテンツマニアやアニメファンから髙い支持率を得る企業である。上場企業を退社し、たった一人で起こした会社をいかにして成長・発展させてきたのか。その試練と克服の過程を伺いました。さあ、株式会社トップス 代表取締役社長 近藤尚己様の登場です!
ご縁に感謝 恩に報いる
◆見どころ
ー富士山の麓で育った少年時代
ー第二新卒でサンリオ入社
ー40歳を過ぎてから独立
富士山の麓でスポーツ少年だった幼少期
山梨県富士吉田市の出身です。父母と妹と弟の5人家族。富士山の目の前で育ちました。富士吉田市は標高が高いですから夏は涼しく、クーラーもいらないくらいです。父は宝飾業を営んでいました。地元山梨県は昔から水晶の採掘が盛んな地域で、採掘された水晶を加工する職人が多くいたんです。僕が子供の頃は宝飾業も景気が良い時代でしたね。
夏は野球と柔道、冬はスピードスケートと、1年中スポーツをしていました。柔道は近所のお寺の道場で僧侶の方に指導いただきました。スケートも近所の富士急ハイランドにある400mスケートリンクが練習場でした。零下十何度という気温の中の早朝練習の間に自転車は凍ってるんですよ。固まったブレーキをガシガシ握って氷を外してから自宅に戻ります。朝ごはんを食べてから学校へ行く。近所の仲良しの友達もみんなそんな生活でしたね。スケート選手として大会にも出ていました。小学校時代は児童会長で、運動会では全校生徒代表などやっているような活発な子どもでした。
中学の頃には夏は柔道・冬はスケートの二足の草鞋を履いてました。市内の同年代の選手に武藤敬司さんがいて、中学時代に何回か試合をしましたけれど、勝てるわけがない(笑)。背が高くて、手足が長くてね。当時からむちゃくちゃ強くて有名でしたよ。僕はそれからバイクに興味が出たりして、柔道はやめてしまったのですけれど。
重厚長大から軽薄短小の時代そのままに転職
大学は池袋の立教大学の経済学部経済学科へ進みました。池袋の西一番街の割烹で4年間アルバイトをしました。サークルは何を思ったか、英語劇をやるESS。400人くらいいる大きなサークルで、僕はドラマセクションに配属となりましたが英語で演技をするなんて無理で、照明などの裏方を担当していました。早慶一橋立教の4大学が英語劇コンテストで競い合っていました。3年生の時は助監督をやりましたね。ESSは人数が多いからOBも多い。就職にも強くてね、諸先輩方が声をかけてくれたりして、いわゆるESSコネクション。私もOBの方のおかげで川崎汽船グループの株式会社ケイラインエイジェンシーへ就職しました。
ところが当時は円高と原油高のダブルパンチで企業業績がとても悪かった時代。特に海運業は世界統一基準のドル建て運賃のうえに、石油燃料で船を動かすわけですから船が走るほど赤字になる。メディアなどでもこれからの時代は軽薄短小だと言われていて、高度経済成長期を支えてきたいわゆる重厚長大産業はすでに斜陽でした。そこで2年くらいで辞めて株式会社サンリオへ転職しました。1987年の時です。
これが今の仕事につながるきっかけになったのですが、当時は右も左もわかりませんでした。
モノづくりの楽しさを知ったサンリオ時代
今でいう第二新卒ですね。サンリオは当時の企業としては珍しく中途採用を100人くらいとっていたんです。サンリオは偶然にも出身地が同じ山梨県の会社です。両親はもとより地元の友人なども好意的に受け止めてくれる人が多かったのは嬉しかったですね。前職経験が海運会社でしたから、面接の際には貿易部に配属になるよというお話しでしたが、入ってみると実際には本社商品部仕入課所属でした。中途採用とはいえ、仕事は初心者。商品仕入れのノウハウを一から学びながら製品仕様について頭に入れていきました。少しずつ見積もりを出せるようになり、最終的には商品企画のプランナーまでやりました。
とにかくモノづくりの楽しさを知りましたし、自分の携わった商品が店頭で売れ、道行く人が身に着けてくれているのを目にするのはこの上ない達成感がありました。
当時はバブル真っただ中で、季節ごとに日本各地で大きなイベントがあり、社員として応援に行くことも多かったですね。キャラクターはキティちゃん全盛期でしたが、他にはターボーやけろっぴなどが新しくデビューした時代でもありました。当時は新宿の靖国通りにギフトゲートができた頃で企画すれば製品が飛ぶように売れていく。そんな経験をさせていただきました。仕事は楽しかったし、同僚にも恵まれて、責任ある立場を任せてもらえる充実した日々でしたが、少しずつ自分自身の力で仕事をやりたいという気持ちが大きくなっていきました。そこで思い切って独立することにしたんです。当時の役職は係長。40歳でした。仕事は楽しかったのですが、大きな会社の中でやはり僕自身のアイデアが採用されないときも当然ありましたし、絶対いける!と踏んだ企画が実現しなかったりというのも経験しましたし。これ自体はしょうがない事なんです、組織ですから企業は。自分自身で決断して、実行して、決済する。基本的に父親のDNAというか、自営の方が性に合っているんだと思いますね。若気の至りというかね、独立して自分自身でやっていける自信がありました。子どももいましたし、もちろん家族は大反対(笑)。天下のサンリオさんですからね、このままいけば生活は安定しているわけで、無理もないです。上司にもありがたいことに大反対されましたが、ただ自分自身の力でやってみたいという気持ちは変わらなかったですね。本当に僕のわがままですけれど、妻には絶対に生活だけは困らないようにすると約束をして。理解してもらいました。
受注するフィギュアは誰でも知っているキャラクターばかり
金なし、客なし、自信あり。独立して得た人の縁と恩
「俺なら何とかなるだろう、何とかしてやるよ」と思って独立しましたけれど、やっぱり世間は甘くなくって。井の中の蛙大海を知らずというかね、自分は良い製品を企画できるし、それをきちんと形にできる安い工場も知っているという自信がありました。辞めてから知りましたね、そんなの大したことないって(笑)。7月に退職して、9月に会社を設立しました。仕事もお金もない僕でしたけれど、サンリオ時代にお世話になっていた製版会社の社長が声をかけてくれて、その会社内に机を置かせてくれました。午前中はそちらに出社して、午後からはこれまたその方が紹介してくれた顧客に営業に行きました。それが今もお世話になっている、アニメイトグループの株式会社ムービックさんです。いわゆる製造業は、お金が先に出ていく業態なわけです。中国で製品を作って買取するわけですから、まずお金がないとモノは作れない。独立したばかりの僕に運転資金も融通してくれたんです。中国のメーカーに僕が発注すると、その方が先に送金してくれる。ただただ僕を信じて任せてくれたことには感謝しています。もちろん出た利益はきちんとお渡ししました。
独立した当初は、時間だけはたくさんありますから毎日ムービックさんに通いました。当時の担当者の方がまだ若い方だったので、私の商品知識やノウハウに興味を持たれたので、毎日説明したんです。ある日は「紙」がテーマだったり、「印刷」がテーマだったり。上質紙とは何か、オフセット印刷とは何か。なんてのを2-3カ月ずっとやったんです。そのうち逆に先方から、製版会社の片隅に置かせてもらってる僕の机まで通ってこられるようになりましたね。それである程度は私というものを信用していただいたのだと思います。その年の12月に劇場公開のアニメ映画の劇場グッズを受注させていただきました。いわゆる営業という営業はしていなくて、サンリオ時代に培った経験がお仕事につながっていきましたね。
(DAY2へ続く)
取材:NORIKO ライター:RYO 撮影:グランツ株式会社
◆近藤尚己氏 プロフィール
山梨県富士吉田市出身。
海運会社を経て、株式会社サンリオ入社。商品企画部での経験を活かして株式会社トップス設立。
マニア垂涎の精緻なフィギュアやコンテンツグッズを企画・生産している業界の先頭を走り続ける。
株式会社トップス 代表取締役社長 公式サイト:http://tops-jp.com/
傘下グループ企業:㈱未来工場・㈱ヴェルテクス・㈱ティーエルティー