今日ご紹介するのは株式会社アイロリ・コミュニケーションズ代表の森田様。常に自由な発想でアートと広告のはざまを走り抜けた過去や大久保という多国籍な町で国内初の運動会を開催し、真のボーダーレスの実現に取り組む、ボーダーにとらわれない生き方を実現しているそのスタイルを伺いました。
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見どころ
―小学生で集団脱走のリーダーに
―美大でアートイベンターとなる
―米国帰りで3DCGの講師に
無意識下の小学校低学年時代
新宿、大久保エリアで生まれました。当時の新宿は結構物騒だったそうで、板橋に新築したビルがありましたので小・中・高は板橋で育ちました。幼少期は超虚弱体質で5歳まで生きられるかという心配もあり、外出も少なく家で絵を描いて過ごすことが多く、他者との集団生活やひらがなの練習なんかもあまりやらないまま小学校に入学しました。家庭の教育方針は「無いものは作る」でした。塗り絵をしたければ下絵を描き、玩具が欲しければ紙粘土で作る。絵描きが目を悪くしてはいけないと、テレビと活字は基本禁止でした。小学校では、今までの自由きままな生活が急に一変して、授業中に椅子にじっとしていることが難しかったんでしょう。集団生活やルールに馴染めず、授業を抜けては校庭の砂場へ向かう日々でした。当時だから「ちょっと変わった子」でも今なら「問題のある生徒」だったと思います。当時の記憶がおぼろげなのも、他者を認識するという意識が弱かったのだと思います。3年生になってから少し他人を意識するようになったのですが、それまで無自覚でいた自分にはすでに周囲からのキャラクター設定ができ上がっていて、毎日なにかやらかしてくれる子ということになっていました。
2年生の時に「カブトムシを取りにいこう」と、クラスの皆を引き連れて小さな旅に出たそうなんです。担任の先生がクラスに戻るともぬけの殻だったから大騒ぎになり、水道橋辺りで発見されました。だから保護者の評判も頗る悪くてね(笑)
こんな風に僕自身が気付いた時にはすでに、クラスの中心でイベントメーカーのようなイメージが出来上がってしまい、卒業するまでは「なぜこんな期待に応えなくてはいけないのか?」と悩みました。本来の自分は入学前、自宅で静かに絵を描いている、そんな一面も自分らしいという思いがありましたから。
珍しいもの好きで先見の明があった祖父
今住んでいる大久保のビルは、もともと戦後は珈琲工場でした。絵描きだった祖父が戦争で目を悪くしまして、絵描きの性格柄でしょうか、珍しいもの好きが転じて珈琲工場を設立したんです。当時はまだ珈琲を輸入している企業が無く、食品メーカーは薩摩芋の皮を焦がして珈琲を名乗っていたような時代だったと聞いています。国鉄はまだ貨物輸送がメインだったのですが「電車は未来の川になる」と駅前の土地を買い、電車に人が乗るようになると喫茶店チェーンにしたそうです。砂糖が輸入されるようになると、珈琲は砂糖が無いと売れない時代が訪れ、砂糖の権利をUCCとポッカが取ることで原価が上がるようになりました。それで思い切りよく珈琲工場はたたんで、突然宝石商に転身しました。高度成長期には、宝石をあればあるだけ売れるという時代があって、その収益で駅前の土地をビルに建て替えたそうです。
キャラ変更に失敗!
中学校で私立に行ってからは、小学校時代のキャラクター設定を変えよう!と決意しました。自分からは事を起こさず静かにしていたのですが、勉強合宿に行った時、宿舎の内装工事をしてしまったり、「山を越えて湖に行こうぜ!」と夜な夜な懐中電灯をもって皆を引き連れてしまい、キャラ変更失敗しました(笑)朝、日の出を見て、あー、良かった、楽しかった、なんて言いながら戻ったら先生達にこっぴどく叱られましてね。当たり前ですが。小学校とあんまり変わらない自分がいました。
絵は日常的に描いていましたが、もっと達人に挑みたく、美術研究所に通うことが許されたのが中3の頃でした。そこでは美大受験生に混じって絵を学ぶのですが、絵に関してはどうしても1番でいたい負けず嫌いな自分がいて。1番でなかったらあまりの悔しさに、1週間くらい夢の中の講評でうなされていました。そんな負けず嫌いでしたが、結局は二浪もして多摩美術大学へ入学しました(笑)祖父は母や叔父の誰かを絵描きにしたかったようなのですが、その夢は叶わず、孫の僕へと受け継がれました。美大に進んでからは受験作品のような単純な相対評価は無くなり、何を創るべきかという自分の中での絶対評価を重視する思考に変わりました。
自分をプロモーションしようとアートイベンターになる
多摩美というのは、良くも悪くもセオリーがない美術大学でして、自分で見つけた結果だけを評価する校風でした。東京藝術大学などの王道からは外れていますから、自由な発想で勝負するしか無い風土があったように思います。先生師事のもとで個展をして段階を踏むことが王道のルーティンだとしたら、海外へ出てそこからの凱旋逆輸入アーティストというのが多摩美のOBという感じでした。今ではそれも一つのルートとして認知されていますが、当時は業界のルーティンクラッシャーとされていました。そんな雰囲気の中で僕が行きついたのがアートイベントでした。アートイベントを主催者して「良い場所」に自分の作品を発表するわけです(笑)。無いなら作るのが作り手ですから。美術館にとって新規層を動員するプロモーションと称して企画を立案し、美術館や企業の協力を取り付けて開催させていただいたりしました。
砂浜に築いたオブジェ
米国仕込みの3DCGの講師となる
当時はジュラシックパークが公開され、3DCG技術が注目されていた時でした。子どもの頃から粘土が好きだった僕としては、立体が動くというのは新しくて面白いと思い、さっそく着手しました。まだ3DCGをやっている人は少なかったので、ちょっとした作品を作るだけで1日10万円くらい稼げ、1週間で100万円くらいになる学生アルバイトでした。
大学卒業時、ワークステーションという高性能機材を扱っている商社の方にお声がけいただき、本場アメリカで研修を受ける機会を得ました。ハリウッドの映画製作会社で3か月の実地研修をさせていただきました。それを終えて帰国すると、ちょうど日本ではデジタルハリウッドが人気を博しているタイミングで、代々木アニメーション学院が新設学科の主任講師を募集していました。当時、光学式モーションキャプチャーは日本に5台しかなかったのですが、この新設学科にはフルスペックの機材がそろっていて、代々木という立地も好都合でしたので申込をしました。結果的には2年間の講師生活でしたが、僕が入った当初は卒業生の就職内定率が皆無でしたが、業界の過渡期も重なり1人が2,3社の内定を取ることができました。講師時代に注力したのは生徒にコンセプトワークとプレゼンテーションの意識を根付かせることです。機械が使えて技術があっても、それを作る目的とプレゼンテーションできる能力が無ければ社会にはつながらないわけです。専門学校の方針は「道具を教えること」だと言われましたが理解できませんでした。だから生徒には「なぜ作るのか」を徹底的に深堀りさせました。「ガンダム作ります」なら、「なぜガンダム作ろうと思ったのか」ここが大切なんだよと。プレゼンテーションも、最初はクラス内でやっていたのを、隣のクラスへ出向き、その次は学部全体で、そして学校全体で、さらに他所の専門学校へ、フィールドをどんどん拡大させていきました。自分が学生時代に開催したアートイベントの経験から、学生たちにイベント企画を指導して実行したりもしました。教室に電話線を引き、事務局を設立し、学生たちはどうやったらクライアントさんからスポンサー契約が取れるか思考するわけです。スーツ着てね。卒業後に社会で活躍できますよね、否が応でも。
明日へ続く
インタビュー:アレス ライター:NORIKO
◆プロフィール
森田應学(もりた おうがく)
東京都新宿区出身
多摩美術大学グラフィック卒
(株)アイロリ・コミュニケーションズ代表
新宿間税会常任理事 青年部長
https://shinjuku-kanzeikai.jp/
東京国税局間税会連合会理事 青年副部長