子どもの頃から、自分のことは自分で決める
「あなた」のあとの苦悩
ヒット曲の後に得た下積みの経験
1973年に発表され、200万枚を超える売り上げを記録した「あなた」。
40年以上も前のヒット曲とは思えないほど今でも多くの人に愛されている曲である。
この曲をわずか16歳という若さで世に生み出し、スターダムへと駆け上った女性が本日登場のスゴい人。
才能、運、人との出会い。
時代を経ても人の心に響き、感情を揺さぶるこの名曲を背負って、彼女はどのように日本のミュージックシーンを牽引してきたのか。
さあ…
株式会社NNG
代表取締役 小坂 明子様の登場です!
子どもの頃から、自分のことは自分で決める
3人兄弟の末っ子でした。
幼い頃から一匹狼気質でしたね。
父親が作曲家だったので、その影響で3歳からオルガンを弾き始めました。
まだ、おしゃぶりが手放せなくて。
おしゃぶりをしながらオルガンを弾いていたんです。
いい加減もうおしゃぶりはやめなさい、と何度注意されても気に留めずにいました。
しかしある日突然「もうやめよう!」と自分で決めて。
そのままの勢いでゴミ箱へ自分の手で捨てました。
この頃から既に誰かの指図を受けるのが好きではなく、自分のことは自分自身で決めたい性分だったように思います。
ガロの為に作った楽曲「あなた」を自らが歌うことに
当時はガロさんのファンでしてね。
3人編成のガロさんに歌って頂きたいと思って「あなた」を書き上げました。
どうしたらガロさんにこの曲を歌ってもらえるだろうかと考えて、ヤマハのポピュラーソングコンテスト(通称:ポプコン)に出ることにしたんです。
地方予選から勝ち抜いて大阪本選までたどり着きました。
もともと本選ではヤマハ所属の二人組の歌手の方と、ピアノを弾きながら私が低音パートを歌う3人編成でした。
ところが、大阪本選の当日、その二人組が別のコンテスト出場と重なってしまって出られなくなった。
代わりに歌えるシンガーも見つからず、急きょ私一人で歌うことになったんです。
父親の怒りに反して、優勝
当時、父は大阪本選の審査委員長。
関西ではジャズ界の重鎮でした。
人前で歌ったことも無い私が、急場しのぎで歌手として出場するというので、当然のごとく大反対されましたね。
リハーサルでは父は指揮者として同じステージに。
何も言わなくても怒り心頭なのが背中から伝わりました。
ところが歌い終わると「これはものすごいことが起きる曲」だと褒めていただき、優勝。
父もここまでくるとさすがに何も言わなくなりました。
シンガーとしての活躍に違和感
音楽大学附属高校の2年生だった私は、それまでは順調に音楽大学へ行って音楽の教員免許をとって、という将来の夢を持っていました。
ところがあっという間に「あなた」は大ヒット。
私はテレビやラジオなどのメディアに引っ張りだことなり、睡眠時間も取れないほどの多忙を極める日々。
卒業の為に出席率とにらめっこするようになりました。
まったく想像もしていなかったことです。1973年のことでした。
ヒットに恵まれた幸運と引き換えに、思春期の普通の高校生としての日々を失いました。
億単位のビジネスが自分の周りで動いていると理解していましたし、もう後戻りはできないのだと10代ながらに感じていましたね。
「あなた」のあとの苦悩
「あなた」を引っさげて16歳で紅白歌合戦にも出場を果たし、少しずつ周囲が落ち着きを取り戻していく中、本来の私の活動であるシンガーソングライターとして曲を作れるようになりました。
「あなた」のようなヒット曲を生むのはなかなか難しくて。
それまでちやほやされていたとはいえ年齢が若かったですから、私自身の発言力は全然なくて。
数字に対するジレンマも抱えていました。
そんな中思い切って就職活動をしたこともあるんです。
当然ですがどこのレコード会社であれ、音楽出版社であれ、「あなた」の小坂明子を一介の社員として採用することには及び腰で。
八方塞がりでしたね。
ヒット曲の後に得た下積みの経験
この頃に出会った主人は音響関係者だったのですが、当初から私には辛口でした。
「君には下積みがない」「何十人でもいい、小さなホールであってもそこにいる人達を感動させるライブができるのか」と。
突発的な大ヒット曲を抱えていた私の本質を見抜き、厳しくも正論を指摘したのです。
反発しながらもどこかその話に納得している私自身を感じて、「よし、一からやってやろう」と。
もともと私は自分のことは自分で決める人間だったし、誰の指図も受けたくなかった人間だと。
「あなた」に翻弄されて右往左往するのは、私らしくない人生だったわけです。
そこから自らのサウンドで小さなライブ会場を成功させること、1つの場に責任を持つこと。
いわゆる「下積み」を後付けで私は学びました。
この「後付けの下積み」の経験が、その後作曲家へ転身した際も、プロデューサーとして新たな才能を発掘する立場となった時も常に私を助けてくれました。
新しい才能への気づき
10年の活動の中で、私自身はセルフプロデュースよりもプロデューサーの方が向いているなと気づきました。
自分のための楽曲制作では身震いするような創作意欲が沸き起こらない。
ところが才能ある方を見つけると、その人が持つ魅力を最大限に引き出す曲や歌詞を創って新しい時代の風を起こしたいという思いに燃えてくるんです(笑)
代表作となったセーラームーンの各楽曲においても、長年アニソンという歴史を作ってきた巨匠達に混じっていかに私自身のカラーを生み、そして時代のカラーを作っていくのかということに丁寧に向き合いました。
実は幼いころ、作曲家だった父に私は作曲家には向かないと言われていました。
作曲家には決断力や直感力が重要だから、そもそも女性には向かない仕事だと。
それだけは父が間違っていたと、今ははっきりと言えますね(笑)
今の時代に音楽を支えていく2つのアクション
デビューから40年が過ぎた今、大切にしていることが2つあります。
1つは自分の作品を世に出すとき。
必ず問うのは「この曲には魅力の粉を振りましたか?」という言葉。
この曲は歌い手の魅力を引き出し、ミュージックシーンに新しい価値を創りだすことができるのか。
私が作曲家である限りこれからもずっと問い続けていくであろう言葉です。
2つ目は音楽の裾野を広げ、支えていくために。
音楽とはひと握りの特別な才能のある人だけのものではなく、一人一人の個人の中にも確かに音楽は生きています。
だれでも音楽家であるし、だれでも好きなように音楽を楽しんで欲しい。
私自身が学び、導かれてきた日本のミュージックシーンでの経験を今度は誰かのために役立てたいと考えています。
音楽界のフィールドを広げるような草の根の活動を支えていきたいです。
取材を終えて
ご主人と過去を回想しながらお話しくださいました。
大ヒット曲を抱えながらジレンマを抱えた苦しい日々を、寄り添い支えてこられたご主人との仲睦まじいお姿にこちらまで心が温まりました。
恥ずかしながら私個人としては御多分に漏れず「あなた」の「小坂明子さん」という認識がありました。
大ヒットの影に人知れず苦労されていた過去や、作曲家として名曲を創りだされてきた功績の数々。
自分の不勉強を痛感すると共に、その非凡な才能で様々に活躍されてきたのだと知りました。
これからも余すところなくその才能を発揮され、我々を感動させ続けて下さるに違いありません。
プロフィール
1973年 第4回世界歌謡祭にて「あなた」で最優秀グランプリ受賞。
200万枚を超える大ヒットとなる。
1974年 NHK第25回紅白歌合戦へ出場。
1984年 独立。作曲家としての活動が本格化
1993年~2005年
ミュージカル 美少女戦士セーラームーンへの楽曲提供および監修担当
2006年 自身のピアノインストゥルメンタルアルバムが海外チャートで1位に。
作曲家としての活動と自身の音楽活動との両立
2017年
8月美少女戦士セーラームーン25周年記Classic Concertへゲストアーティスト出演
10月 自身5枚目となるCDアルバム「again」を発売予定。(Universal Musicより)
◆株式会社NNG のんのんじゃんるプロジェクト公式サイトhttp://nonnongenre.com/site/home/
◆小坂明子オフィシャルブログ Mucal Feeling https://ameblo.jp/mucal/
◆2017年8月開催の「セーラームーン25周年記念クラシックコンサート」の様子https://mdpr.jp/news/1705199