早稲田大学を卒業後、株式会社ダイヤモンド社に入社。
彼は、ダイヤモンド社で特にやりたいことは無かったと言うが、その後、社長、会長まで上り詰めた。
出世をした。
引き受けた仕事は
「必ず最後までやりきる」
「Noとは言わない」
というポリシーを持って働いていた。
彼が編集長時代に行った雑誌のモデルチェンジが読者に受け入れられ、50%も部数を伸ばすことに成功した。
彼はどのようにして、雑誌のモデルチェンジを成功させたのか?
さあ・・・協同組合ワイズ総研 代表理事 岩佐豊様の登場です!
「雑誌のモデルチェンジ」
大学を卒業してダイヤモンド社に入社してから特に何がしたいという願望はありませんでした。
社長になりたいと思ったこともありません。
ただ、雑誌の記者をやっていた時には、人よりも早く情報を知ることができるのが面白いと思っていたので、自分に合っていたのかも知れませんね。
言われた仕事には全て「イエス」と答えてきました。
失敗もたくさんしましたね。
3年目の時に、雑誌の2ページの空白を埋める仕事があって、締め切りまで時間もほとんどありませんでした。
慣れていれば、すぐに企画から取材までこなせるんですが、まだまだ新米の記者だったので、自分ひとりではできず、結局、先輩記者に頭を下げて何とかページを埋めました。
元々見栄っぱりな性格なので、与えられた仕事に対しては「できない」とは言ったことはありませんでした。
かっこ悪くてそんなこと言えないんです。
私が雑誌の編集長をしている時に、売り上げの部数が伸び悩んでいたので雑誌のモデルチェンジをすることになったのです。
まず、1年間は特集の内容を今まで企画したことが無いものだけで構成する、という方針を出しました。
最初のうちはいいのですが、しばらくするとネタが尽きてくるのです。
編集会議をしていても名案が出てこないので、想定している読者層に合わない内容の企画も出てきます。
そんな時はいつも『No』を突きつけていました。
編集長は読者の代表として意見を言わないといけないので、芯をブレさせてはいけないのです。
だから、週一回の編集会議はエンドレスで続き、納得行く企画が出るまで喧々諤々と議論を続けるのです。
終わるのはほとんど深夜の2時、3時を過ぎるのが当たり前でした。
そうして雑誌作りに取り組んでいたら、結果的に前年同月の売り上げを上回ることができたんです。
半年程してから、雑誌の書き方を横書きから縦書きへの変更もしました。
最終的には5割は部数が伸びました。
当時いた6人の副編集長が優秀だったんですね。
それに、誰一人紙面づくりに妥協しなかった。
それが上手くいった唯一の要因かも知れません。
今は色々な会合で経営についての講演会を年に40~50回程行っています。
そこで言っているのは、今はチャンスの時代だということです。
戦国時代のように時代が新しい主役を求めているのです。
当然楽な時代では無いのですが、なろうと思えば主役にもなれる。
やりがいのある時代だと思いますよ。