絶体絶命の状況を打破して国政に進出したスゴい人!

甲南大学卒業後、当時はアメリカへ留学する人がほとんどいない中、貨物船でアメリカに渡り、オレゴン大学大学院で4年間頑張ってMBAを取得した。
帰国後は兵庫県の県議会議員を3期務め、国政へと進出し、環境庁政務次官、外務政務次官、参議院農林水産委員長、日本国特命大使など要職を歴任した。
この、県会議員から国会議員へのチャレンジをした時が、人生で最も辛い時期だったという。
周囲の人からは当選は不可能とまで言われる絶体絶命の中、どのようにして彼は選挙に勝つことができたのか?
さあ・・・株式会社ピコテック代表取締役会長 石井一二様の登場です!

「一生懸命無我夢中」

大学卒業後は同和火災海上保険に就職をしていたんですが、このまま働いていても何かパッとしないなと思って、人生をやり直してみようと決意したんですね。
貨物船で渡って、ハウスボーイをやりながらオレゴン大学大学院に通いました。
アメリカの家庭に住み込みながら、皿洗いからベッドメイキングまでお手伝いさんのような事をしました。
又、夏休みには、ニューヨークやロスアンジェルス等の大都会に出てレストランでの皿洗い、倉庫での荷役夫、旅行ガイド等をやりながら昼夜を問わず働き、一杯のミルクの有難味を肌で感じました。
このときは英語がまだ実力不十分だったんで、授業が英語、家に帰っても英語と英語漬けの毎日で1日15時間は机に向かうという、大変な生活でした。
でも、この留学があったから、後に国会議員になって外務政務次官をやることになった時も、アメリカとの交渉では通訳が一度もつきませんでした。
一生懸命勉強すれば何とかなるもんなんですよ。
今までで一番大変だったのは、地方議員から国会議員に挑戦した時ですね。
それまで神戸の県会議員を3期12年やっていたんですよ。
国会議員になろうと決めて2年半の間、どぶ板選挙で走り回ったんです。
その時の最大のライバルは県会議員の議長と党県連幹事長をしていた人で、田中角栄の庇護を受けている人でした。
県会議員も、52人中50人は相手の味方です。
周りの人からも絶対当選しないだろうって言われましたね。
まさに絶体絶命だったわけですよ。
でもね、そこは根性ですよ。
もしダメだったとしても当時は40代だったので、若いから再チャレンジはいくらでもできると思っていました。
まさに人生で一番大きな賭けでした。
選挙は雲の中を飛んでいる飛行機みたいなもんなんです。
苦しいけど地道にがんばり続けるといつかぽっかりと雲が晴れる瞬間があるんです。
どぶ板選挙が功を奏して当選することができたんですよ。
逆境を跳ね返すことができて、本当に嬉しかったです。
県会議員や国会議員をやっている時も、政治家は政治ばっかりやっていてはダメだと常々思っていました。
だから、政治家をしながら20ぐらいの事業を絶えずやってきました。
うまくいくこともあれば、うまくいかないこともありました。
でもこうして国民の生活に触れないと、大切なことを見落としてしまうこともあるんです。
無理な努力、無駄な努力、無茶苦茶な努力、これが大事ですね。
絶えず前進あるのみが私の信条です。

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