【小林 旭】演技と歌の両極で大成功を収めた昭和を代表する大スター

小林 旭

昭和を代表する大スターが本日登場する。

出演した映画は270本以上、主演した映画は150本以上に上る。石原裕次郎と共に日活の黄金時代を築いた。

活躍の場は銀幕だけに納まらず、歌手としても大成功を納めた。

「ダイナマイトが150屯」「ズンドコ節」「ついて来るかい」「昔の名前で出ています」など数々の名曲を世に送り出し歴史に残る大ヒットも記録した。

そんな大スターにも、売れる日を夢見て、歯を食いしばった下積みの時代が存在した。

さあ・・・小林旭様の登場です!

 

「悔しさを夢に変えろ」

私が日活に入ったのは終戦直後。テレビもまだ登場しておらず、娯楽の代名詞と言えば映画の時代でした。

当時の給料は手渡し。横長のテーブルの上に日活所属の俳優の給料が富士山のように積まれた中から配られる。

自分の給料は1万3千円。隅の方に薄く置かれていました。隣のテーブルには著名な役者さんの分がこれ見よがしに積まれている。

その真ん中に、ドンと積まれた札束の山には『森繁久彌様』と書かれている。

当時1万円札は無かったから全て千円札で500万円はあったんじゃないかな。

それを見て、悔しくて悔しくて・・・。今は苦しいけど、将来は絶対にスターになるんだと信念だけは誰にも負けないものを持っていましたね。

映画『孤独の人』の掃除をするシーンの撮影で、アドリブをきかせて鼻歌を歌っていたら、たまたま居合わせたコロムビアレコードの文芸部長さんの目に留まった。

我々のところで歌いませんか、という話になりデビュー曲『女を忘れろ』の発売に繋がり、昭和33年の新人賞を獲得したんだ。

日活が同じタイトルの映画を作成して、それがまた大ヒットした。

人気に火がついて、渡り鳥シリーズや銀座旋風児(マイトガイ)などの主演へと繋がっていった。日本だけで無く、海外でも人気が出た。

映画の撮影で台湾に行った時に、飛行機のタラップに頭を出した瞬間に、耳元で『ワー!!』って地鳴りがするような大歓声が鳴り響いた。ファンの人が大勢集まってくれていたんだね。でも、あまりに人が集まりすぎて、飛行場のビルが揺れていたよ。

撮影現場への移動も道路が人で埋め尽くされて、車が通れなかったので、急遽白バイが先導してくれた。

有名税というのかな・・・。贅沢な話かもしれないが、顔の無い人生があったらいいなと思うこともあった。演技をする時、歌を歌う時は、そのことに没頭していて、余計なことは一切考えないようにしていた。

照れくさいとか、余計なプライドを意識したりすると失敗する。なりふり構わずとにかく一生懸命。これが大切だ。

お客さんが見てくれて、喜んでくれる、そんな演技を目指すことが、一番だね。

今の若い人にも、胸や頭に、確固たる信念を持って、1度や2度のつまずきでクヨクヨせず、蹴飛ばし返すぐらいのエネルギーを持って、夢に向かって突き進んで欲しいと思います。

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